朝靄の中、首都高速を飛ばしていく。自宅から目的地まで大した距離ではないが、都心である分信号に捕まってイライラするよりはよっぽどいい。稲川さんも、きっと窮屈な車の中にいるよりも、外での待機の方がいいだろう。 思い返せば、こんなに朝早くから稲川さんとふたりで出かける機会はほとんどないのだから、嬉しさに浮き足立つのも喜び勇んでしまうのも仕方がないというもの。東条の野郎が稲川さんの幼馴染——しかも名前呼び——というのは業腹だが、今回ばかりは褒めてやってもいい。一人寂しい奴のために、ペアカップでも買って帰ってやろう。
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『は? お前ら付き合ってんだろ? 行ったことねえの?』 「うん……変、かな」 『や、デートスポットの定番中の定番だろ』 「そういうもの?」 『お前らのことだし、別にわざわざ行かなくてもいいんだろうけどよ。でもお前は別にキャラクターが嫌いじゃないんだろ?』 「まあ……」 『そうだよな。黄色いくまさん大好きだもんな』 「…………うん」
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秋口とはいえ、まだまだ残暑の厳しい今日この頃。味噌汁をすする姿もかわいらしい稲川さんが口にした言葉に、箸からミニトマトを落としてしまったのは不可抗力だと声を大にして主張したい。 「……ええと、その、本当に申し訳ないのですが、もう一度お願いします」 「わかりにくかったですか? すみません」 そうして先ほどよりも声音を似せて淡々と繰り返された会話の内容がうまく呑み込めない。とりあえず固まっていた身体を動かして、床へ転がったミニトマトを拾い上げた。 「——という会話を篝としまして」 席を立ってミニトマトをキッチンで軽く水洗いし、再び腰かけたところで、ようやっと話が脳に到達した。つまり、これは——デートのお誘い、というやつでは? 「行きましょう」 「え」 「いつがいいですか明日ですか仕事休みますね」 「あの」 「こうなったらどのルートを行くのが最適かを今から調べなければ」 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「明日はだめです」 それはつまり先走って振られた、ということに他ならないのでは。稲川さんに嫌われた? これはもう切腹するしかないのでは。 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「お仕事を急に休むのはよくないです」 「はい」 「火曜日か木曜日、都合のいい日はどこかありますか」 「調整させていただきます」 稲川さんからの言葉には、一も二もなく頷くことしかできなかった。人の仕事の都合まできちんと考えてくださるだなんてさすが稲川さん。
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そんなこともあり、現在入場ゲートの前の待機列だ。チケットは事前に購入しておいたし、少々荷物は多くなってしまったが、アルミ製の軽くて小さな折りたたみイスを持ってきておいて心底よかった。開園まで、あと二時間弱。あれやこれやの問答も、もはや懐かしい。 ともあれ、今日は快晴。筋雲が空高く刷いているかのような、絶好のデート日和だ。せっかくお誘いいただいたからには、稲川さんに思い切り楽しんでもらわなければ。 「そうだ、稲川さん。これ、よかったらどうぞ」 「わ、ありがとうございます。わざわざ作ってくださったんですか?」 「ゆっくり朝食を食べるより、早く出たいかと思って」 鞄の中からラップに包んだサンドイッチを手渡す。前日に楽しみすぎて今朝は不覚にも寝坊してしまい、こんな簡単なものしか作ることができなかったのが悔やまれる。 使い捨ての弁当箱は用意していたし、ピックだけで食べられるものを準備していたとはいえ、今朝仕上げようと思っていたものを間に合わせることも、弁当箱に彩りよく詰めることも、どうにも時間が足りなかった。 結果、苦肉の策のサンドイッチだ。元から用意するつもりだったとはいえ、かなり量は心もとない。園内に入ったら、何か購入するべきだろう。 しかしながら、開園前のパーク前の待機列は思っていたよりも人と人との距離が近い。この状況では仮に弁当を持ってきていたとしても、ふたりで弁当をつつき合うのは難しかったかもしれない——否。稲川さんを空腹に耐えさせるわけにはいかないのだから、弁当を食べないという選択肢はない。あわよくば稲川さんに食べさせてもらったり—— 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「その……とてもおいしいです。ありがとうございます」 小さな口を開けてもそもそとサンドイッチを頬張り、きちんと噛んでゆっくり飲み込んでから、小さくはにかんでそんな可愛らしいことを言ってくれるだなんてそんな俺はどうすればいいのかわからなくなることをしないでほしい。嘘。もっと見たい。できることならば、ずっと隣で。 「稲川さんのためですから」 稲川さんのためなら、どんなことでもできるんですよ。
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待機列の長さを見たのか、本来よりも三十分早く開園した。ゆっくりと列を進み、手荷物検査を受けていざゲートの中へ。軽快な音楽とともに、キャストから明るい声が飛んでくる。さすがは夢の国。現実の諸々は全て忘れて、この世界を楽しむとしよう。 土産物屋の連なるアーケードを抜けたら、目の前には大きな城。そこを右手へ進んでいく。この広い園内に限られた時間で、どう回ればいいのかは事前にサーチ済みだ。稲川さんが最大限に楽しめるコースをアテンドするための努力は惜しまない。せっかく稲川さんが誘ってくれたデートなのだから。 目をつけていたあるベンチに腰掛け、先ほどパークに入場した時に使用したばかりの携帯電話を取り出す。そうしてショーの抽選画面を開いて稲川さんに差し出した。 「ええっと……?」 「いくつかショーをやっているんですけど、どれも抽選なんです。せっかくなので、稲川さんが応募していただけませんか?」 「え」 「お願いします」 「責任重大……」 「時間はお任せします。午前中と最後の枠が当たりやすい、というのは聞きましたけど……」 「ん、やってみます」 辿々しい手つきで携帯電話を操作する姿を隣で眺める。あ、という声とともに、画面が向けられた。 「あの、当たったみたいなんですけど……どうすれば?」 「え、すごい! じゃあ、もうひとつのショーもお願いします」 「ええと……これ、かな……あ」 「外れました?」 「当たりました」 「さすが稲川さん天使は運命さえ我がものに……?」 「大袈裟すぎません?」 見せられた画面にはなんと時間帯を変えようという気遣いのもと、昼すぎの時間が表示されていた。最初のショーは十時五十分から。その次は十六時二十分からだ。後者は倍率が跳ね上がる時間帯のはずだが。これが天使の力か、と打ち震えていれば、控えめに袖を引かれた。 「それで、次はどうしますか?」 「とりあえず、何か乗りましょうか。こっちからだと……」 「……あの、ハニーハントに……」 「わかりました行きましょうすぐ向かいましょう今ならそんなに待ちませんし」 「……ありがとうございます」 稲川さんからのリクエストに応えない道理はない。どこかで行こうとは思っていたが、一番最初に行くとは思っていなかった。最後にもう一度乗るのもありだろう。 どうせ並ぶのだから、と、失態を犯したばかりに量の少なかった腹を満たすため、アーケードを出てすぐのところにあるパン屋に入る。 中はひどく狭く、並んでパンを選ぶのも難しいほどではあるものの、可愛らしいパンの数々は見ているだけで楽しい気分にさせてくれた。 「あ、これ美味しそうですね」 「ハンバーグですか? さすが王様。僕の顔をお食べ、と」 「そんなこと言ったら何も食べられないですよ」 ネズミの形をしたデニッシュ生地の顔部分に、ハンバーグが詰められている。チーズとトマト風のソースがかけられ、香ばしい匂いが立ち込めていた。その隣には同じ形をしたチョコレートと胡桃のマフィンに、色鮮やかなフルーツの乗ったものが並べられている。その下段に三角形のクリームパンに骨型のパン。そして、全力で存在感を主張する緑の目玉がひとつ。夢に出てきそうだ。 「……なんでしたっけ、このキャラクター」 「……モンスターズ・インク?」 「……夢に出てきそうですね」 「メロンパンみたいですよ。ほら、ポーチも」 「……食べますか?」 「やめておきます」 結局、ハンバーグのデニッシュをひとつずつと、胡桃のマフィン、骨型のパンを購入した。思っていたよりも菓子パンが多い。 パン屋を出たところで、目の前にあるポップコーンのワゴンに稲川さんが目を輝かせた。赤いワゴンの上に乗っているのは、巨大なはちみつの壺の上に嬉しそうに乗っている黄色いくまのバケットだったのだ。あまり並んでいなかったこともあり、早々に手に入れる。うきうきと花を飛ばしながら満足そうにポップコーンを口に運ぶ姿にこちらまで嬉しくなった。やはり稲川さんは天使。 待ち時間があまりないアトラクションであることがわかっているため、入口と反対側にあるそこへのんびりと歩みを進める。エリアが変わるごとにガラリと雰囲気が変わるのが目に楽しい。 「……あ、こんな植え方するんだ」 街並みよりも、美しく整えられた花壇に目を奪われる稲川さんはもはや職業病というやつなのだろう。それでも、十分に楽しそうなのだからこちらとしては見ていて楽しいことに違いはない。しかし、ショーが十時から始まってしまうことを考えると、このペースでは御所望のハニーハントに乗ることはできそうもない。 「稲川さん……その、大変心苦しいのですが」 「え、あ、はい、どうしましたか」 「ハニーハント、後で乗りませんか?」 「え?」 「その、時間が、ですね……」 「あ! ああ……すみません……」 「いえ! いいんです。考えてみたら、午前中のうちにパークを散歩した方がいいと思うんです。日中は暑いですし、アトラクションの待ち時間は屋根の下で涼みましょうよ」 「そうですね。その、ありがとう、ございます」 時間に余裕ができたので、稲川さんが気にしていた植込みの近くにちょうどあったベンチで先ほど購入したパンの袋を開けることにした。 並んでもそもそとハンバーグデニッシュを齧る。幾層にも重なったサクサクとしたデニッシュ生地に下味が薄めのひき肉が詰め込まれていて、そこに甘辛い肉とマヨネーズがかかっている。小さいながらもパンチのある食べ応えだ。 こぼれ落ちた生地を払いながら次のパンを取ろうとすると、稲川さんに声をかけられる。顔を向ければ、購入したパンの包みからひとつを差し出されていた。 「これ、どうぞ」 「ありがとうございます」 反射で受け取ってから、それが骨のパンだと気付く。 「黄泉坂さんって、なんだか犬みたいですね」 「——そうですか? はじめて言われました」 確かに、稲川さんについて回って構ってほしいとばかりに尻尾を振っているかもしれない。そういえば、稲川さんは犬派だっただろうか。猫派なら、全力で猫に——この話はやめておこう。 一口齧れば、どうやら小麦ではなく米粉を使っているようで、もっちりとした食感が腹にたまりそうだ。これは思っていたよりも重いかもしれない。少し食べ進めれば、こしあんがぎっしりと詰まっていて、控えめではあるが口の中の水分が奪われそうだ。乾いた水分を補うようにドリンクを口にする。 そんな感想を伝えれば、目の前でマフィンを千切る稲川さんがふにゃり、と力の抜けたような顔をするものだから、たまらなくなる。抱きしめたくなる衝動をこらえて微笑みかけた。 さすがに多すぎるかと思っていたが、量は夢の国仕様、とでも言うべきか。言うまでもないことだが、価格も夢の国仕様である。その分先ほどよりもゆっくりとひとつひとつの鉢や植え込み、剪定の仕方に至るまで丁寧にみて回っていく。それぞれの花の名前だとか、花言葉だとか、植え込みの相性だとか。疑問に思ったことを問えば丁寧に答えを返してくれて、花に興味は全くないけれど、稲川さんの好きな花を贈りたいな、と思った。 「あ」 「どうかしましたか?」 「あの……ちょっと待っていてもらえますか?」 「ご一緒しますよ?」 「ええと……あ、僕が行っている間に、黄泉坂さんにはチュロスを買ってきて欲しいなって……ダメですかね」 「いえ、喜んで! 買ったらここに戻ってくればいいですか?」 「はい。よろしくお願いします」 稲川さんが何をしようとしているのかはわからないが、こんな頼まれごとは滅多にない。ならば全力で応えねば。天使のように優しい稲川さんは、きっとここまで俺に任せきりにしてしまっていることを気に病んでいるのだろう。好きでやっていることだから、と何度言っても気にして下さるのは嬉しいものだ。何をして下さるのかとても気になる所ではあるが、きっとすぐにわかることだ、とワゴンに足を向ける。 少しばかり並んではいるものの、回転が早いだけあり、大して待つこともなく順番が回ってきた。どうやらチョコレート味らしいチュロスを二本購入し、まだ温かいそれを握りつぶさないように気をつけながら待ち合わせの場所に戻る。 「……すみません、待ちましたか」 「いえ、待っていません、よ……?」 「よかったです。これを黄泉坂さんに……黄泉坂さん?」 「アッはいなんですか稲川さん」 先ほど稲川さんが向かった方向に視線を向けていれば、思わぬ方向から声をかけられた。振り向けば、短いながらも意外とふわふわとした稲川さんの髪の上に、ちょこんと鎮座する黄色いくま。はちみつを探して東奔西走するくま。赤いTシャツだけを着た下半身丸出しのくま。 稲川さんはキャラクターの中ではあいつが好みであることは知ってはいたが、まさか頭に乗るのを許容するほどだったとは。正直言えば耳を付けた稲川さんが見たかったが、稲川さんがくまを丸ごと乗せることを望んだのであれば、それで良しとする。くまが可愛いかどうかはともかく、天使の頭に丸っこくて小さいふわふわが乗っていて、それにふわふわ笑っている天使がいるのは事実なのだから。 「ちょっと屈んでください」 「はい」 素直に頭を下げれば、頭に何かが付けられ、頭が締め付けられる感覚。耳を挟まないよう、丁寧に差し込まれたそれに、最後の仕上げとばかりにさらりと耳元の髪を撫で上げられる。どうにもこそばゆい。 顔が赤くなっているだろうな、と思いつつ、布のようなものが生え際に当たっているような気がする。気になって触ってみると、どうやら耳のようだった。丸いネズミの耳ではない。 「耳、ですか?」 「はい、そうです」 「ここの王様のじゃないですよね。ネコにしては垂れているような……」 「わんちゃんです」 「わんちゃん」 「わんちゃんです」 「わんちゃんですか……」 「わんちゃんです」 頭の悪い会話をしているな、と思いつつ、言われた言葉を呆然と繰り返す。黄色いくまを頭に乗せた口から発せられる『わんちゃん』という単語があまりにも破壊力が高かったのだから仕方がないだろう。わんちゃん。俺の頭に犬耳。まあ、稲川さんが楽しそうだからいいか。
そうこうしているうちに、あっという間に時間が近づいてきた。会場に行けば、ショーを待っているであろう人たちが並んでいる。キャストの話を聞くに、どうやら自由席があるらしい。来て早々にショーに並ぶだなんて結構なことだ。それほどショーの出来が良いと言うことだろう。今から期待が持てる。 日頃の行いがいいのか、稲川さんのおかげか、ど真ん中の席に着くことができた。ショーが始まるまで多少時間はあるが、後ろに迷惑をかけないようにか、少しだけ背を丸めて小さくなりながらも、ソワソワしているのが隠しきれない様子が可愛らしい。 開演を知らせるアナウンスの後、いよいよ幕が上がった。ストーリーはどうやら、魔法のオルゴールとやらからなくなってしまった歌をキャラクターたちが探しにいく、というもののようだ。 キャストの歌唱やセリフは録音なのかもしれないが、ダンスのキレも、ターンのタイミングも、上げられた腕の角度も、どれもがきっちりと揃っていて見ていて気持ちがいい。 さらに、丁寧に作り込まれた衣装や小道具。上から降りてきたり横から出てきたり、はたまた後ろから迫り出してきたりと、舞台をダイナミックに見せる舞台装置。キャストが最大限輝くように、ストーリーを最大限活かすために計算され尽くした照明や音楽。その全てが噛み合って夢のような素晴らしい空間を作り出している。 大掛かりな舞台装置だけでなく、最新技術もしっかりと取り入れられており、クリアスクリーンに本当の魔法のように次々とキャラクターの動きに合わせて映像が移り変わっていくところは、予想はできていても感嘆せざるを得ない。 それでいて、キャラクターたちの親しみやすさや愛らしさが損なわれることなく、ヴィランたちのパートでショーにメリハリを与えることで深みを与えた。最後はキャスト全員で、心の中にある歌こそが自分を映す魔法だ、と高らかに歌い上げ、大盛況の中、幕が下ろされた。あっという間の三十分だった。終始圧倒されていたような気さえする。 「すごかったですね!」 「はい。歌もストーリーもステージも、流石夢の国っていうか」 「歌は美しい心を映し出すかけがえのない魔法で、宝物。素敵ですね」 「はい。とても」 順番に退場案内をされるのをゆったりと席に座って待ちながら、どこか浮ついた気分で今のショーについての感想戦が始まった。ジャングルのパートで、ダンサーさんたちは蔦のような棒に捕まっていたが怖くはないのだろうか、だとか、プリンセスたちのハーモニーが本当に美しかった、だとか、海の魔女の巨大な蛸足が嫌にリアルだった、だとか。 三十分の中で目まぐるしく変化していく場面場面の全てが素晴らしく、ひとつひとつ話していても感想が尽きることはない。昼食への道すがら、ずっと互いに話通しだったのは少し珍しいように思う。 そのまま、少し奥の王様たちの町にある店で昼食を取ることにした。エリアが変われば雰囲気もガラリと変わり、森の中のようなイメージから、アニメのような世界へ一変した。 先程までいたのは、未来都市とここ王様たちの町の飛び地のようになってはいるが、おとぎ話の国の一角だ。ここはアメリカのカートゥーンの世界、とでも言うべきだろうか。ビビッドでキャッチーな王様の町だ。その中にある、あひるの水兵の親戚らしき三兄弟が経営するカフェ、ということらしい。狭いエリアでは一番大きな店のようだ。 イートインのスペースはなく、近くに屋根付きの広いテラス席がある。稲川さんにはそこで席を取っておいてもらうことにして、店舗の列に並んだ。カフェというだけあって軽食がメインの店だ。調べていたときに、王様の手の形をしたバンズに挟まれたバーガーのようなものが面白そうだと思ったのだ。 園内を広く散歩したものの、三回目の食事ともなればそこまで空腹は感じていない。あまり大きくはなくても大丈夫だろう。改めてメニュー表を見ると、目当てのものはどうやらバーガーではなく、パオというらしい。中華まんの皮が厚くなったような見た目をしている。エッグチキンとエビカツの二種類があったので、それぞれセットを購入した。 「お待たせしました。エッグチキンとエビカツ、どっちがいいですか?」 「ええと……じゃあ、エビカツにします」 「はい。ドリンクもありますよ」 「わ、手の形してますね」 「おもしろいですよね、こういうの」 「そうですね」 取り止めのない話をしつつ、パオを食べ終えたところで、 「じゃあ、行きましょうか、ハニーハント。ここからすぐですし」 「わ、楽しみです」 そして稲川さんお待ちかねの黄色いくまさんのアトラクションにやってきた。待機列は絵本の世界に飛び込んだかのような演出がされている。原作の本はこんな感じなのだろうか。待ち時間は三十分となっていたが、思っていたよりも列の流れが早くて、見上げるほどの高さから始まる英文を目で追うことができない。この物語もこれから先のアトラクションの布石に違いないだが。 がやがやと音が四方八方から鳴っている。蜂蜜の入った壺に乗りながら、主人公である黄色いくまさんが風船で空を飛んでいく様子を追いかけて目を輝かせる稲川さんを、隣でずっと眺めていた。 「お帰りなさい!」 その声に顔をあげれば、いつの間にか降車位置まで戻ってきていたようだ。ストーリーは九割方右から左に抜けていて、これは失敗した、と思う。稲川さんを見るのに夢中になりすぎてしまっていた。 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「……その、あまり見られるのは、恥ずかしい、ので……」 「可愛いです」 「あの、話聞いてました?」 「稲川さんの話聞かない人でなしなんてこの世に存在するんですか?」 「……そうですか」 至極当然のことを言ったつもりだったのだが、なぜか稲川さんにため息をつかれてしまった。その姿さえ天使のように愛らしいのだけれど、何が原因なのかさっぱりわからない。もしかしてもっとキャラクターを間近で見たかったと言うことなのだろうか。しかし、そうするにはコースターの通路を変更する必要がある。しかしながらそれは俺の力が及ぶ範囲ではまるでない……そういえばキャラクターのグリーティングとやらがあるのではなかっただろうか。そこに行けば稲川さんもきっと満足してもらえるのでは? 「黄泉坂さん」 「はいなんでしょうか稲川さん」 「次はどうしますか?」 「え、あ! す、すみません。こっちです」 考えていたことを一旦頭の隅に寄せ、すぐそばのホーンテッドマンションに向かう。少しばかり待つようではあるが、思っていたよりも列の移動があるため、せっかく持ってきた折りたたみ椅子が日の目を見ることはあまりない。しかし、最後のパレードで活躍してもらう予定であるので、何も問題はない。 俺も稲川さんも、互いにホラー体験としてはそれなりに散々な目にあってはいるが、ここは夢の国。そのうえフィクションであることがわかっているだけに恐ろしさはない。 「稲川さん、キャラクターとのグリーティング、行きますか?」 「ええと……他の人もたくさんいますし……ちょっと、その、申し訳ないというか、見られているところで写真を撮るのは恥ずかしいというか……その、見掛けられたらもちろん嬉しいですけど」 ふむ。ならば、道端でのグリーティングができれば良いか。会えるかどうかはわからないが。 内心で計画を修正しているうちに、ついに順番がやってきて、案内通りに屋敷の中に入ると、男性の声で前説が始まった。話が終わる頃に肖像画が骨になっているのを見て、ああ、そういえばこんなこともあったな、と懐かしく思う。そうして、隣の部屋で天井が伸びるのか床が下がっているのか、という演出もそうだったそうだった、と頷きながら後に続いた。 大きなソファが次々と流れてくるうちの一つに並んで座る。俺よりもずっと大きい稲川さんでも、ソファよりは小さいようだ。肖像画がかけられている廊下や書斎、ピアノ室と、さまざまな部屋を通過していく。逆向きに回る時計、不気味な影、水晶玉に映る予言を続ける首、幽霊たちの宴、墓場。至る所から音楽と悲鳴が聞こえてきて、音が混ざってわかりにくい。墓場で陽気な音楽を奏でるな。楽しそうに歌うな。 それにしても見えているはずでも人形が墓の影からピョコりと飛び出すたびにびくりと反応するのを感じる。先程の反省から、ずっと見ていられないのが悲しいところだ。 そのまま豪邸の中を進んでいけば、俺と稲川さんの仲を引き裂くかのように老いぼれジジイが間に座ってきやがった。そもそも大天使の隣に幽霊ごときが座るだなんて一体どう言う了見だ。さっさと成仏しろ。もう死んでいたか。 少し口に出ていたかもしれない。稲川さんに嗜められてしまった。そういうアトラクションなのであった。気を付けなければ。
次は隣のエリアだ。おとぎ話の国から、フロンティアの地へ。そうして並ぶのは、エリアの中央に存在する岩山だ。廃坑となった山をトロッコに乗って駆け抜けるもの。アトラクションのセットである岩肌は思っていたよりもずっと精巧にできている。 待ち時間は一時間程度。これなら問題なくショーの時間に間に合うだろう。待機列からちょっとした冒険気分を味わえる演出が面白い。外に見える岩山に隠れているらしい王様を探していれば、あっという間に順番が回ってきた。トロッコに乗り込み、廃坑を縦横無尽に駆け回る。 暗い山中をぐねぐねと進んでいるかと思えば、外に出ては落ちてまた山中へ、と出たり入ったり忙しない。暗闇の中ではどこをどう進むのかも予想がつかず上っては小さく落ちて曲がりくねり、ということを繰り返し、やっと終着駅についた時には情けないことに少しばかりぐったりとしてしまった。 「ジェットコースター、すごく久しぶりに乗りました」 「俺もです。こんなに狭いところをくねくねする感じなんですね……」 「え、だ、大丈夫ですか?」 「すみません……外の空気を吸えば問題ないので……」 ぐったりとした気分も、天使が心配してくれている、と言うだけで気分は上昇するものだ。二つ目のショーの会場はここからちょうど反対側になるから、散歩をしているうちにかなりマシになるだろう。 どうやらエリアごとに植わっている花の種類もどうやら少し違うらしい。朝の散歩ではこちら側までは来なかったため、稲川さんに豆知識を教わりながら、のんびりと散策をすることにした。
次のショーは、ク夢の国のクラブらしい。どうにも想像がつかないが、踊り出したくなるようなナンバーが続く、ということなのだろうか。 今回も稲川さんの徳のおかげか、かなり良い席に座ることができた。前から五列目の中央の席だ。しばらくして舞台の幕が上がる。 軽快な音楽とともに登場した王様の軽やかなターンとダンスに始まり、バックダンサーを引き連れて踊っていれば、どんどん仲間が増えていく。ヒールのある着ぐるみを着ているにも関わらず、舞台の端から端まで華麗に踊り、階段を駆け上り、踵が腿につくほどの大ジャンプを披露する——中の人間は超人か何かかもしれない。あ、いや、中の人はいないのだった。この夢の国の王であるにはそれくらいできなければいけないのかもしれない——世の王様稼業は大変だな。 陽気なラテンのナンバーにギターのソロナンバー、かと思えば、こちらでもヴィランのダンスが取り入れられていた。いささか唐突なように思ったが、いかにも魔女、という格好をした老婆が背中を丸めながらキレのあるダンスを踊っているのは滑稽だ。 女性キャラクターの可愛らしさに全振りした歌に反してキレのあるダンスの次は、知らないキャラクターだが会場を巻き込んで場を盛り上げ、ラストは全キャストが出てきて壮大に王様のテーマソングをアレンジした曲で締められていた。 「このショーも楽しかったですね」 「演出がシンプルな分、それぞれの技量が露骨に出そうなものですが、どのダンサーさんも素敵でした」 こちらも三十分という時間ではあるが、クラブというテーマに相応しく、様々なキャラクターやキャストが楽しそうに歌い踊流、見応えのあるものだった。 感想戦をしつつ、目についた土産物屋に入りながらのんびりと早めの夕食にと考えているおとぎ話の国方面へと向かう。 「お兄ちゃんいたー!」 ある種の功労者である独り身の東条の野郎に送るペアカップを吟味していると、そんな声とともに、足に衝撃。見れば、何かのシリーズのプリンセスだろうか、ふんわりとした水色のドレスを身に纏い、髪を編み込んでお団子にまとめた女の子がしがみついていた。 「え」 「……あれ、お兄ちゃんじゃない……」 見つめ合って固まっている俺の視線の先で、大きな目がどんどん潤んでいくのがわかる。どうすればいいのかわからない。狼狽えていれば、くしゃり、とその顔が歪む。ついに決壊するか、というとき、隣の天使が跪いてそっと手を取ったのがわかった。 「……こんにちは、お姫さま」 「……! うん、こんにちは!」 泣きそうな顔が笑顔に変わった。まるで魔法みたいだ。さすが稲川さん。天使と姫の組み合わせが尊すぎて、写真を連写したいけれど、今はそんな場面でないことは分かっているので、涙を呑んで目に焼き付けることにする。 「お兄ちゃんを探してるの?」 「うん。お兄ちゃんがユイをお姫さまにしてくれたの」 「そっか。とっても可愛いよ」 さらっと褒める稲川さんが素晴らしすぎて、思わず拝んでしまったのは不可抗力だと言いたい。稲川さんに物言いたげな視線をもらってしまったけれど、少なくともユイちゃんというらしいこの子は見ていないから何も問題はない。 「お兄ちゃん、いなくなっちゃった……」 「きっとお兄ちゃんも、ユイちゃんを探してるよ」 「……ほんと?」 「だって、お兄ちゃんはユイちゃんをお姫さまにしてくれたんでしょう?」 「うん」 「なら、お兄ちゃんは今日はナイトだ。お姫さまを守るナイトは、お姫さまを置いていかないよ」 「……うん、うん! ありがと! お兄ちゃんが戻ってくるまで、お兄ちゃんをユイのナイトにしてあげる!」 「そう? じゃあ頑張らせてもらおうかな」 素晴らしい論理展開に内心拍手喝采を送る。見ず知らずの女の子に優しくする稲川さん、さすが天から使わされた大天使。いやもはや聖母か? しかしいくらこの子が小さいとはいえ、言っておかねばならないことはある。 「言っておくけど。このお兄ちゃんは俺のというのは烏滸がましいけど、アンタのナイトにはさせないから」 「ふふん。悔しがっても、このお兄ちゃんはユイのナイトなんだからね!」 「ユイちゃん、抱っこしてもいい?」 「お兄ちゃんなら許してあげる!」 了承の言葉とともに、稲川さんは子どもを抱き上げ……抱き上げた!? なんて羨ま……いやなんてことをさせているんだコイツは。 「許してあげるじゃねえんだよ早く降りろ」 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「大人気ないです」 「……はい」 「ベーっだ」 小憎たらしいクソガキに物申せば、稲川さんに叱られてしまった。いやでもこのクソガキが稲川さんの手を煩わせるのが悪いのでは? いやでもやっぱりこの光景は癪だが絵になるな。 「ユイちゃん」 「なあに?」 「お姫さまはそういうことするの?」 「……ごめんなさい」 「……はあ。悪かった」 クソガキの方もしっかり叱った稲川さんに促され、クソガキが謝ってくる。そうされれば、俺も何も言わないわけにはいかない。稲川さんからの視線が痛い。さっさと謝れば満足そうに頷いたので、もうそれでよしとすることにした。 ともあれ、デートに水を差したクソガキの兄とやらをさっさと見つけなければ。 俺よりも背の高い稲川さんに抱え上げられて、クソガキは至極満足そうだ。ひとまず近くのキャストに迷子センターの場所を聞くと、入り口付近だという。少し待つように言われると、インカムで情報がないか確認をしてくれた。 「まだ迷子の連絡は来ていないようです」 「そうですか。焦ってキャストに聞くという頭がないのかもしれませんね」 「私がその子をセンターまでお連れします」 「ぜひ」 キャストの提案に、一も二もなく乗っかる。このクソガキを引き渡せば、晴れて稲川さんは自由の身だ。頷いてキャストがクソガキに向かってにっこりと笑みを浮かべる。 「こんにちは、プリンセス」 「こんにちは!」 「お名前を教えてくれますか?」 「ユイです!」 「教えてくれてありがとう。ユイちゃん、わたしと一緒に、お兄ちゃんを待つところまで行ってくれますか?」 「……このお兄ちゃんもいっしょ?」 クソガキは抱えられている稲川さんの服をしおらしくぎゅっと握りしめる。ちょっと待てそれは稲川さんの魅力を最大限引き出すために買った服だし、なんなら昨晩お願いされてほとんど徹夜で悩みに悩んだぱっと見わからない程度のお揃いコーディネートの服であってお前にしわくちゃにされるために来てもらっているわけではないのだが? そこのところわかっているのか? 「……お姫さまの仰せのままに」 「やった!」 「ありがとうございます」 うわあああ録音、稲川さんちょっと今の録音したいからもう一回言ってほしい。稲川さんはやはり大天使ということに間違いはなかったのだ。そもそも宇宙の摂理に等しいのだった。しかしながらクソガキが稲川さんの服を握りしめているのは納得がいかない。けれどそれも許してしまう稲川さんは素晴らしい。それでも稲川さんがふんわりとした服を着たプリンセスと言った風貌の幼女を抱えている絵は眼福だ。しかし、しかし—— 「じゃあ、行きましょうか。案内お願いします」 「はい」 こちらの葛藤はつゆ知らず、そう言ってクソガキをふわりと抱えなおした稲川さんが、キャストの先導に続いて足を踏み出す。ここはすでにおとぎ話の国のエリア。いずれにせよ、入り口に戻るためには、今来た未来都市を通ってぐるりと戻ることになる。 どこも人が少なくはないため、下手に探し回るよりもセンターに向かう方がいいだろう。一応目の前はこのガキの身長でも乗ることのできるアトラクションの多いエリアだ。そこをぐるりと回ってから戻ることにする。 「あ! お兄ちゃん!」 メリーゴーランドのあたりで、真横からクソガキの甲高い声が響いた。黄昏時のこの人混みの中では、野に放った瞬間に人波に攫われることを危惧したのであろう稲川さんが、腕の中のクソガキにどの人、と問いかけている。 「あのね、おっきいリボンがついてる帽子をかぶってるの」 「あの白い水玉の人?」 「うん!」 赤地に白い水玉のTシャツに真っ赤なリボン。どのキャラクターを模しているのかすぐにわかる。筋骨隆々な『お兄ちゃん』だ。キャストが声をかければ、狼狽えたように話し出した姿を見て、ゆっくりと歩み寄ってくる。そこでこちらに気づいたのか、大きく腕を広げる。 「ユイ!」 「お兄ちゃん!」 地面にそっと下ろしてもらったクソガキは、真っ直ぐ兄の腕の中に飛び込んだ。混んでいなければそのままくるくると回っていそうなほどの感動の再会シーンだ。 「お兄ちゃん、あのね、あっちのお兄ちゃんがね、お兄ちゃんを見つけるまで、ユイのナイトだったんだよ!」 「そうだったの?」 「いやさっきも言ったけどお前のじゃねえから」 「べーっだ」 「黄泉坂さん」 「はいなんでしょうか稲川さん」 「大人気ないです」 「……はい」 「ユイちゃん」 「……ごめんなさい」 「……悪かった」 どうも既視感のある会話をすれば、目を丸くしていた『お兄ちゃん』が失笑した。 「ふふ、ああよかった。ユイがお世話になりました。考えてみれば、真っ先にキャストの方に声をかけるべきでしたね」 「驚いてしまうのは仕方がありません。何より、無事に見つかって良かったです」 「ユイと一緒にいてくれて本当にありがとうございます。こんなに懐くなんて」 「素直で可愛い子ですね」 「そうでしょう? ほら、ユイもお礼言って」 促され、クソガキは『お兄ちゃん』の腕から降りてこちらに近寄り、稲川さんのズボンの裾を握って見上げてくる。視線を合わせるようにしゃがんだ稲川さんの耳に、内緒話をするように手を当てて何事か話し、そうしてこちらをチラリと見上げ、あろうことか稲川さんの滑らかな頬に——! 「あら、まだユイはお嫁にはやりませんよ」 「光栄だけど、僕よりもっと素敵な人を見つけなよ」 「じゃあね、ユイのナイトさまとその付き人!」 「気をつけてね、お姫さま」 「本当にありがとうございました」 「いえ。お気をつけて」 「ご協力ありがとうございました。この後もパークを楽しんでくださいね!」 目の前で会話が進んでいる。クソガキが抱き上げられ、こちらに手を振りながら去っていくのも見えている。が、理解ができない。子どもの可愛らしい行動だろう。めくじらを立てることでもない。それはわかっている——わかっているが、どうしても認めたくないのだ。 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「大丈夫ですか?」 「……大丈夫じゃない、です」 真っ白な頭のまま、ゆっくりと稲川さんに向き合い、こちらを見下ろす黒い瞳を見つめる。 「……ちょっと、こちらへ」 「はい」 「そこに立ってください」 「えっ……あ、はい」 稲川さんの言葉で我に帰れば、アトラクションの脇、生垣の前に立つように指示される。 首を傾げながら指示に従うと、稲川さんが背後に回る。振り向こうとしても、そのまま前を向いていてください、と言われたならば、それに従うことしかできなくなってしまう。 目の前で人々が行き交う様をぼんやりと視界に収めつつ、背中に全ての神経を集中させていれば、とん、と背中に何かが当たった感触がする。 「黄泉坂さん」 「、はいなんですか稲川さん」 存外近い場所から声が聞こえてきて、びくり、と背が震える。すり、と背中に当たる何かが擦り付けられる感覚に、体は完全に固まった。 「…………お腹が空きました」 「え! あ、そう、そうですよね稲川さんずっとあのクソガキ抱えてましたもんね疲れましたよねいや気が回らなくて本当にすみませんこの近くにレストランがあるので混む前に行きましょうすぐ行きましょう」 両手を意味もなく動かしながら、言われた言葉に渡りに舟とばかりに飛びつく。まさかそんなことをされるとは露とも思わず、必要以上に驚いてしまった自覚はある。まさかこんな所でこんなことを——あれが思い違いでないのであれば、もしかしなくとも、頭を、俺の、背中、に。 動揺を隠す暇もなく、振り向いて——なんと天使は俺の服の裾を控えめに握っていることが発覚した——そっとその手を取る。 「ありがとうございます、稲川さん」 「……いえ」 それきり押し黙ってしまった天使の手をそっと引いて、目の前のハートの女王の城へと向かう。トランプ兵たちが立っている横を通り、城の厨房へ。トランプを模したトレーを持って、好きなものを乗せていく形式だ。 アンハッピーバースデイのケーキや、ハンバーグにハート型にくり抜かれたチーズが乗せられていたり、トランプ兵を模したクッキーが刺さっていたりと、芸が細かい。稲川さんはサーモンのオーブン焼きにシーザーサラダ、ご飯を取っていた。俺はハンバーグとミネストローネ、ご飯にする。 会計を終え、混雑し始めた店内で席を探す。壁際のソファ席がちょうど空いていたので、そこに座ることにした。ハートのステンドグラスがあしらわれた窓や、薔薇の迷路にトランプ兵のいるテーブル、くねくねと曲がった燭台。まるで自分が小さくなったかのように大きな花のランプ。 おかしな国の住人たちを統治する女王の城の角で、この後のことを相談しながら、冷めても美味しい食事を堪能した。 「最後のパレードはどうしますか?」 「せっかくですし、見てから帰りませんか?」 「わかりました」 「あと、その……」 「どうかしました?」 「ええと、ハニーハント、なんですが……」 「俺、もう一回乗りたいと思っていたところなんです。稲川さんはどうですか?」 「……黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「ありがとうございます」 「とんでもない」 今度はきちんとストーリーを追いかけることができた。絵本の中の世界だ。黄色いくまの大好物のはちみつを食べ尽くしてしまった。おかわりを探すため、友人にもらった風船で空を飛びながらフクロウやオレンジ色のトラにハチミツの場所を訪ねていれば、トラに恐ろしい生き物がはちみつを狙っているぞ、と言われてしまう。そのとき嵐が来て、くまは飛ばされてしまった。 そうして、おどろおどろしいながらもどこか可愛らしい世界で、その化け物に食べられる夢を見る。目が覚めたら場面は変わり、ハチミツ牧場に飛ばされてとっても幸せでしたとさ。いや、これはめでたいのか? 夢の国で夢オチをするのは禁じ手な気がするのだが。まあ、絵本でもこういう話はあるだろう。可愛らしいならありなのかもしれない。 早めの食事に満足のいくアトラクションを堪能したら、パレードのよく見えそうな位置へ。まだ一時間以上あるが、場所取りとしては出遅れた感は否めない。まあ、昼過ぎに歩いているときでさえ、既に場所取りをしている人はいたのだから、この時間ならさもありなん。が、夕食は座ってきちんと食べたかったし、リクエストされたハニーハントに乗れて満足そうにしている稲川さんも堪能できて露ほども不満はない。 日が暮れ始め、夢の国のあちこちに明るい電灯が灯り始めた。パレードが始まる頃には日もすっかりと暮れて、国全体が美しく輝くだろう。 運よく植え込みの前に滑り込むことができ、ようやく日の目を見たイスを広げてパレードが始まるのをのんびりと待つことができそうだ。図体のでかい男ふたりのため、後ろにいた方が良いだろう。 「黄泉坂さん」 「はいなんですか稲川さん」 「今日はありがとうございました」 「いえ。俺も、稲川さんと一日中一緒にいられて、嬉しかったです」 「僕も、その、楽しかったです。ありがとう—— 」 ちょうどパレードのフロートが目の前で止まり、キャラクターが話し始めた。その声に遮られ、稲川さんがなんと言ったのか聞き取ることができない。今聞き返しても、きっと振り向いてはくれないだろう。 ネオンに照らされ、小さく微笑みながらキャストに小さく手を振るその横顔を見つめる。今なら、目の前のショーに誰もが釘付けだから。そんなことを言い訳にして、互いの体の間にある指をそっと絡めた。