同じ家に住んでいるとはいえ、互いに同じ班で仕事をしている訳ではない。滅多に被らない休みが奇跡的に噛み合ったのであれば、家の中ではできないことを思い切り外で楽しみたいと思うのは、何も悪いことではないだろう。 「ねえ、海行きましょうよ、海」 「は? ナンパ目的なら一人で行ってよね」 「そうじゃなくって! オレは純粋な気持ちで誘ってるんですけど?」 「ふうん……で?」 「オンナノコの水着って眼福じゃん?」 「おひとりでどうぞ」 「あー! ウソウソ! 御嶽さんと行きたいんですってば!」 「……まあ、構わないよ」 「やり」 そんな月兎耳の感情は御嶽にはまるっとお見通しだったようで、あっさり許可が出た。これは、御嶽もきっと楽しみにしてくれているのだろう。そうなれば、あれこれ道具を用意しなければ……そういえば。 「御嶽さん、水着ある?」 「んー……めんどくさいから適当に買っといて」 「いいんですか!? 喜んで!」 月兎耳は、当日の海水浴場の選定よりも重要なミッションを負うことになったのであった。
* * *
「暑い……」 「暑いですね……」 燦々と照りつける太陽が、砂浜を強烈に熱している。金髪にサングラスをかけ、白地に緑の葉の茂るボタニカル柄の水着の上下を着た男と、うねる髪を無造作に遊ばせ、紺地に白の葉が染め抜かれたボタニカル柄の水着に白いラッシュガードのパーカーを羽織った男が、連れ立ってアスファルトから伸びる砂浜への道を歩いていた。 パラソルと折りたたみの小さなイスを担ぎ、大きなトートバッグを肩にかけ、クーラーボックスを手にする姿は、誰が見ても全力で海を満喫する気で溢れていた。 「御嶽さーん」 「何」 「オレ、もう心折れそう……」 「月兎耳が言ったんでしょ。ほら、さっさと行くよ」 盆が過ぎ、子どもたちの夏休みもそろそろ終わり。平日ということもあってか人は少ないとはいえ、家族連れやカップルで溢れていることに変わりはなかった。 空いている場所に荷物を置き、カバンの中から取り出したレジャーシートを敷いた月兎耳は、次いでクーラーボックスから冷えたビールを御嶽に手渡す。次いでパラソルを砂浜に突き立て、無心で安定するまでひたすら突き刺した。それを尻目に、御嶽は自分が持っていたイスを広げ、ビール片手にのんびりと海を眺めていた。 作業を終えた月兎耳はクーラーボックスから冷えたスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、汗のせいで滑る手のひらを水着で拭ってからキャップを開け、勢いよく流し込んだ。流れた汗の分のミネラルが染み渡ると同時に、暑さで熱った身体が芯から冷やされる感覚。 「あ、御嶽さん、日焼け止め塗りました?」 「いいや。別に必要ないし」 「ちょっと! この暑さで日焼け止め塗らなかったら死ぬから! あ、それともオレに塗って欲しいってことですか?」 「……」 「無視しないでもらえますー? おーい、御嶽さーん?」 御嶽は、月兎耳が振る日焼け止めのボトルを勢いよく奪い取り、中身を手に取り出す。白いそれに思ったよりも水っぽいな、と思いつつ手足に塗り込んでいった。 「……何?」 「いや、エロいなあって」 パラソルのおかげで日陰となった小さなイスに腰掛け、パーカーの袖をまくる。そこにつけられる真白い線を、節の目立つほっそりとした指先がなぞっていく。指先から肘を通し、隠された二の腕へ。隙間なく、滑らかに滑る肌が艶めいて光る様を、すぐ隣で頬杖をつきながら、月兎耳はじい、と見つめた。 肩まで到達したら、今度は反対の腕。それから足を抱えて爪先、脛、膝。長めの海パンを少し捲って見える太ももを両手が滑らかに辿る。それから、閉じられていたパーカーの前が開けられ、腹を、脇を、胸を——鎖骨を撫でる指先を遊ばせながら、御嶽は口端を上げて太陽に負けず輝く男の顔を見やる。 「……御嶽さん、オレで遊んでません?」 「感想は?」 「背中塗らせて」 「——いいよ」 音を立てて脱ぎ捨てられたパーカーの下から、白い肌が露わになる。カラフルなレジャーシートにうつ伏せになって晒された背中にごくり、と唾を飲み込む音が波音の間にやけに響いた気がした。 その背骨に沿って、クリームのボトルをなぞる。ひくり、と身体が震えるのが艶かしい。あらぬところが反応しそうになるのを唇を噛んでやり過ごし、ゆっくりと肌を掌で味わうように丁寧に塗りこめていった。 「はい、おしまい」 「——月兎耳」 「え、何ですか?」 上半身を起こした御嶽が、無言でレジャーシートを指差す。どうやら交代らしい。調子に乗った自覚はあるため、大人しくシャツを脱いで寝そべった。 その背にひんやりとしたクリームがぶちまけられ、豪快に背中を撫でられる。 「ちょ、御嶽さん待って! くすぐったいって!」 振り返ろうとするも、肩を押さえつけられれば起き上がることはかなわない。背中を豪快に撫で回していた手は肩から二の腕を通り指先へ。反対側もざっと塗り込めたかと思えば、両脇をつ、と指先で辿られる。そうして腰まで手が下りてきたところで、そっと手が外された。 ほ、と一息ついたところで腰あたりにもう一度冷たい感覚。足もやってくれるのかしら、と待っていれば両手はまっすぐ下りて腰骨に—— 「ちょちょちょちょっと! 御嶽さん! ダメだって!」 「堪え性がないなあ」 「そういう問題じゃないから!」 「うるさい」 流石に驚いて身を起こせば、文句と共に背中をぺちりと叩かれた。とはいえ、滅多にない極上のサービスには違いないので、大人しくしておく。どうやらかなりの量を腰に出したようで、両足もやってくれるようだ。正直なところ、もうホテルに向かいたい。 そうして、性を全く感じさせない手つきでぞんざいに日焼け止めを塗り込める様に身を委ねていると、どこからか視線を感じた。わずかに身を起こして視線を巡らせば、こちらを見ていた女性とばっちりと音が聞こえそうなほど目が合った。にっこり笑みを浮かべて手を振ると、小さく嬌声が上がれど、こちらへ来る様子はない。それが聞こえたせいか、単に身じろぎしたことが煩わしかったか、抗議するように腿を叩かれる。視線を女性からあっさりと剥がして、御嶽に声をかけた。 「御嶽さあん」 「何」 「オレ、もうちょっと丁寧にやって欲しいんですけどお」 「十分サービスしてると思うけど?」 「もうひと声」 「やかましい」 「ひどっ」 どうしようもないやりとりをしながら、月兎耳はちらり、と先ほど視線が来ていた方を見やる。華やかなパレオを身に纏った可愛らしい女性は、彼氏らしき男にひっつきながら、にっこりと笑みを返してきた。 「……彼氏持ちかい」 「良かったね」 「どっちが? っていうか、何が?」 「さあ?」 どうやら満足したらしく、御嶽が手を離したのを感じて、月兎耳は砂の上に直接敷いたレジャーシートから身を起こしてイスに座り直す。この短時間で随分と温くなってしまったスポーツドリンクを傾けていると、御嶽がふ、と思い出したかのように話し出した。 「そういえば、この辺りで起きている事件だけど」 「ああ、やっぱり違うところにしておけばよかったですかねえ」 「わざとでなく?」 「わざわざ休みの日にまで管轄でないところに首突っ込もうなんて思いませんって」 ここに来るまですっかりと忘れていたのだが、ここひと月、この湘南地域で奇妙な事件が続いているのだ。まるで突然、何かが降ってきたかのように人がつぶれる、という凄惨な事件が。 「ならなんで?」 「東京湾じゃアレですし、近場の太平洋ならココかと思って」 「外房でもあまり時間は変わらないでしょ。人も少なそうだし」 「湘南で生しらす丼が食べたかったんですう」 「ああそう」 しらす丼が食べたかったのも嘘ではないが、御嶽と海水浴ができればどこでも良かったのだ。ここなら都心からも近く、有名な観光地であることもあって店には困らない。万が一酒を飲んだとしても帰ることが可能な場所というのも大きかった。 「神社でも行く?」 「何しに?」 「縁結び♡」 「必要ないでしょ」 「アッ! ちょっと御嶽さんそういうとこ!」 「は?」 御嶽が月兎耳を見る目がみるみる冷たくなっていく。いたたまれなくなった月兎耳は、気を取り直したかのように立ち上がり宣言した。 「……とにかく! 今日はオフ! 仕事はしない!」 「あ、俺知ってるよ」 「何をです?」 「そういうの、フラグって言うんでしょ」 「うーん、聞いたことないですね」 こういう場合において、フラグというものは仕事をするために建てられるのである。
* * *
残念ながら早朝からは来られなかったため、時刻は昼前。これからさらに暑くなるといった時分だ。既に暑いが。早朝から泳いでいただろう人たちは既に帰り支度をしている姿も見受けられる。 「それにしても、さっきより暑くなってきた気がする」 「御嶽さん、見てください、これ! オレ、準備してきたんですよ!」 「……膨らませるの?」 「はい」 「……空気入れは?」 「チャリのやつ持ってきました」 「そう。できたら呼んで」 「じゃあカッコいいオレ、見ててくださいね」 「はいはい」 月兎耳が浮き輪の口に自転車用の空気入れを四苦八苦しながら取り付け、騒ぎながら膨らませていく。 「あー! また外れた。御嶽さんこれ持っててください」 「ん」 数度外れたところで諦めたのか、大人しくポンプの先と浮き輪を御嶽に手渡す。御嶽は外れないように口を調整してやり、弁を開くように口元を押さえてやって一つ頷いた。空気の抜ける間抜けな音とともに、浮き輪がどんどんと膨らんでいく。それは御嶽が想像していたドーナツ型の浮き輪ではなく、ボートのような形状をしているフロートだった。 「うん、これでよし。御嶽さん、これ乗ってください。引っ張るので」 「別にいいけど、イタズラしないでよね」 「…………じゃ、行きましょう!」 「わあ、露骨」 月兎耳は御嶽の腕を引き、片手に大きなフロートを持って波打ち際へと進んでいく。 今日は少しばかり風が強い。波の高さはさほど気にするほどではないが、沖に流されないよう気をつける必要はありそうだ。波打ち際で御嶽をフロートに乗せ、沖へ引っ張っていく。二人乗りができるサイズは残念ながら入手できなかったが、これはこれで良いだろう。 「あー、ねえ、月兎耳」 「何?」 「代わる?」 「何で?」 「なんとなく」 「別に。御嶽さんいるし」 「あ、そ」 月兎耳はフロートに掴まり顎を乗せ、完全に脱力した状態でぐんにゃりとフロートに身を預けている御嶽を眺めつつぷかりぷかりと波に身を任せる。新しく入ってきた二課の子が可愛いだとか、事務方のお姉様の話に登場する旦那と反抗期の息子のおもしろ会話だとか、最近毎日ゴミ捨て場を通るたびに見かける幼稚園くらいの女の子が嬉しそうに教えてくれる出所不明の雑学だとか。他愛のない会話をだらだらと続けた。 ひとしきり満足して陸へ上がり、パラソルを立てた拠点へ戻る。日差しが強いこともあり、砂浜は焼けるように熱い。 荷物の中からタオルを取り出して頭から被り、次いでクーラーボックスから炭酸水とコーラを取り出す。炭酸水を御嶽に手渡してから、自分用にとコーラの蓋を開けた。独特の甘さが喉を通る前に舌を撫で、しゅわしゅわと泡が口内で弾けるような、喉に当たるような感覚。 「この後どうします?」 「ちょっと早いけど昼にしよ。混むだろうし」 時計を見れば、なんだかんだ一時間ほど経っていたようだ。したことといえばフロートを膨らませたことと、海で浮いていたくらいではあるが、水の中にいるのは思っていたよりも体力を消費したようだ。独特の気だるさとともに、空腹を覚えている気もする。 「ああ、じゃあ、そこらの海の家でいいですか?」 「ん。何があるかな」 話をしながら、砂浜に戻れば、想像していた掘建て小屋のようなものではなく、立派な店が立ち並んでいる。カラフルなプレハブと屋根の下に設けられたテラス席は、かなりの数のテーブルが並んでいた。店によってメニューは違うようで、焼きそばやフランクフルト、かき氷など、凡そ想像のつくメニューから、バーベキューにパスタ、ラーメンにステーキまで、よりどりみどりだ。 「御嶽さん、何食べます?」 「カレーにしようかな」 「はあい。買ってくるので、席お願いします」 海が盛況なだけあり、かなりの賑わいがある。しばらく並んでどうせだから、とカツカレーと汁なし坦々麺とやらを頼んだ。車で来てしまったがためにビールが飲めないのがとても辛い。 あまり時間のかからないメニューだからか、どちらもすぐに料理ができたようだ。カレーの匂いが空腹を刺激する。 ポテトも頼んでおくべきだったか、と軽く後悔しつつ、カツカレーと坦々麺を両手に御嶽の元へと戻る。白い皿にふっくらと炊き上げられたツヤツヤとしたご飯に、長時間煮込まれたことのわかる形の崩れた野菜。それが些事にすら思えるほど大きく中央に乗せられた、衣がサクサクと音を立てていそうな、分厚い身のカツ。その傍らには福神漬けがこんもりと盛られている。 食欲をそそる香りを放つそれを御嶽の前にサーブしてやり、自身はもう片方の手で持っていた坦々麺を、水のグラスが置いてある向かいの席に置いて席に着いた。 「ん」 「いえ」 カレーとは正反対の黒い器に中華麺が盛られている。そこに挽肉で作られたタレと分葱が彩を添えていた。挽肉が唐辛子とよく絡められているからか、程よい辛さと挽肉の食感が分葱と相まって中華麺に変化をつけている。 互いに黙々と食事を終え、食器を返して店を後にする。 「海の家ってこんな感じなんだなあ」 「確かに、もうちょっとボロいイメージがありました」 「想像してたより美味かったし」 「それ。食堂っぽさもあんまりなかった気がするというか」 そんなことを話しながら、拠点に戻る。フロートの上に色々と置いておいたこともあってか、幸いにして飛ばされたものはないようだった。 「あ、俺アレやりたい。早く寝そべってよ」 「こうですか?」 「違う。砂の上」 「え、あ、埋めるんですか?」 「そう。砂風呂みたいな」 「……まあ良いですけど」 熱い砂を少し避けて砂の確保と背中に当たる部分の熱を少しでも下げようとちょっとした抵抗を試みてから、仰向けに寝転ぶ。日差しがまぶしい。 「何これ」 「流木って感じじゃない、ですよね?」 いくらも砂をかけられないうちに、木のような材質の何かを見つけた御嶽が声を上げた。流木にしては妙な形だ。御嶽はおもむろにそれを取り上げ、その彫像のような何かを矯めつ眇めつ検分してする。 「御嶽さん、これ何か知ってるんですか?」 「知らない」 「そうですか」 「まあでも、これは俺が持って帰るから」 「え、何でです?」 「落ちてたんだから、俺がもらってもいいでしょ」 「いやどう見ても人工物じゃないですか。まあ捨てたものな気もしますけど。でも、遺失物は届出ないとダメですよ」 「月兎耳がまともなこと言ってる……」 「いやちょっとそこで心底驚いたって顔しないでもらえません?」 流石に傷つくんですけど、などと零しながら、月兎耳は御嶽の手にある像を見る。円錐形の台のようなものから、蛇のような竜のような胴が生えていた。鬣にしては長くうねった髪が頭を覆い隠しており、隙間から覗く眼光は、木彫りながら周囲を冷たく睥睨しているようだ。付け根からは髪のない、首のようなものが四本出ており、五つ首の何かを象っているようにも見える。 月兎耳には、どう好意的に見ても背筋が凍るような、胃の中がかき混ぜられるような、妙な不快感がある。どんな独特の感性を持っていたとしても、この不快感を前にして持ち帰りたい、などと思うことは常軌を逸している、と思う。 「御嶽さん、これに対して気持ち悪いとか思わないんですか?」 「別に」 「そう、ですか」 同じものに対してこれだけ反応が違うのも妙だ、と月兎耳は考える。普段そのあたりは冷静に分析するはずの御嶽が疑問にすら思っていないことも妙だ。なぜなら、今回の「気持ちが悪い」という感覚は「気分が悪くなる」ことも含まれているのだから。 御嶽が手放したくない、と感じるのは、何かがそう思わせているに違いない。そうであれば、これをどうにか正しい方法で手放したくなるような方法を一刻も早く模索しなければ。 「ねえほら、埋めるから早く寝てよ」 「いや、今そういう流れじゃなかったですよね?」 「埋まらないの?」 「埋まりたいっていうよりも、この像のことを知りたい気分になったので」 「そう?」 「……あーあ。せっかくのデートだったのに」 「帰るの?」 「いや、オレもうその像が気になりすぎて海を楽しめないんで。ちょっと調べさせてください」 「いいよ」 こんなところは素直なんだから、なんてひとりごちつつ、わあわあ言いながら膨らませたフロートは、たった一度海水デビューをしたきり、両腕で潰されることになったのであった。 「ね、御嶽さん、ホントにこの像に心当たりないんです?」 「しつこい」 「そうですか。しっかし、本当にこれ何でしょう。ヘビにしては髪が生えてるし、龍?」 「他の四本には何もないけど」 「でも、どれも頭かも。ほら、八岐大蛇とかいるし、これもその系統なんじゃないですか?」 像を抱える御嶽も、携帯電話を取り出して何か検索をしている。横目で見た画面から、どうやら類似の木彫りの像がないかを探しているようだ。しかし、いかんせん木彫りの像などそれこそ世界中にいくらでもある。これは時間がかかりそうだ、と自分の端末に視線を落とした。 思いついた単語を少し検索にかけるだけで、すぐに情報がヒットした。どうやら、日本でも五頭龍というのはすぐ目の前にある江ノ島の地が有名であるようだ。市の観光サイトやら、地元のモノレール会社、龍を祀っているらしい神社のホームページが並ぶ。随分と手の込んだマンガまで掲載されていた。 曰く、このあたりで五頭龍が暴れては山を崩し、洪水を起こし、台風を呼んでは人々を苦しめていた。西暦五五二年のある日、突如海上に雲が立ち込め、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れる。雲が晴れると、今まで何もなかった海上に一つの島ができていた。これが江ノ島らしい。 そして、龍は天女の美しさに一目惚れをして婚姻を申し込むものの、悪行のために断られてしまう。諦めきれない龍は改心を誓い、天女はそれを信じて夫婦となった。以来、龍は善行を行うものの、その度に力を失い、最後は江ノ島の向かいにある山に眠った、というのである。 「あ、御嶽さん。これ見てください」 「ん——ああ、確かに龍にも見えるか」 「何も手がかりがないんだし、とりあえずここに行ってみませんか?」 「いいよ」 海を楽しむためのセットを一度車に戻し、身軽になって江ノ島へ向かうことにした。像は置いていけばいいのに、御嶽さんは何故か手放そうとしない。仕方がないので、着替えを入れていたトートバッグの中身を出し、そこに像を入れることにした。物理的に離れなければ構わないらしい。
* * *
砂州の上に築かれた橋を渡る。下を見れば、砂浜が江ノ島まで繋がっていた。橋自体は車も通れるほどのものではあるが、これがなければ、さぞ不思議な光景だろう。そういえば、天橋立も似たようなものであったか。 観光地ではあるものの、江ノ島に足を踏み入れたことはないな、何があるんだったっけ、などと話をしながら歩いていると、すぐ側から何かがぐちゃり、とつぶれたような音と、甲高い悲鳴が辺りに響く。次いで生臭い、鉄錆のような匂い。 振り返れば、少しばかり後ろを歩いていたカップルの片割れが血の池と成り果てている。何かに頭から押しつぶされたかのように、その身の原型すら分からなくなるかのように肉片を撒き散らし、生白い骨が飛び出してコンクリートを、恋人を赤く染めていた。まとわりつくような湿度の高い空気に血臭が混ざり、服に匂いが染み付いていくような気さえする。 傍の女性は悲鳴を上げたきり、茫然自失といった様子で血の海に座り込んでは健康で丈夫そうな骨の突き出した肉塊を眺めていた。あちらこちらから怒声、悲鳴、嘔吐、さまざまな音とパシャパシャと携帯電話で写真を撮影する音が聞こえてくる。 その様子を見て、月兎耳は唐突に思い至った。——ここ最近のこの地域での不審死は、まさしくこれである、と。 摩訶不思議な似たような事案に出会ったこともある。都内を中心に関東近郊で起きた頭隠しだ。あれは本を読むことがトリガーであったが、この像が原因と考えて間違いはないだろう。やはり、早くこの像を手放させなければ。そう考えると、誰かがSNSにアップロードする写真に映り込むことも、このまま警察がやってきて事情聴取に時間を取られることも避けたかった。 「大丈夫ですか?」 「月兎耳」 「どうしましたか?」 「早く行くよ」 「……え」 それきり背を向けた御嶽に、再び感じる違和感。いくら面倒でも、被害者の隣にいた人のフォローをしないという選択肢は選ばないような人のはずなのだが。先へ行ってしまった御嶽を追いかけ、月兎耳も現場を離れる。 ——御嶽の肩にある妙な像の入ったトートバッグには、穴が空いていた。
* * *
橋を渡りきれば、こは江ノ島だ。青銅の鳥居から正面にまっすぐ坂道が赤い鳥居まで続いている。車が一台通れる程度の広くはない道の両側には商店が立ち並び、その間には、行き交う人々がひしめき合っていた。 笑い声、楽しそうな話声、それから威勢のいい店の呼び込み。たくさんの言葉が交わされる中、行列のできている蛸煎餅屋の前を通ったときに聞こえた、小さなタコを丸々鉄板に乗せてプレートに挟まれるときの、小さくきゅう、と鳴く音が、やけに耳に残った。 人混みをかき分けつつ歩いていけば、すぐ右手に「江島神社」の石碑があり、少し階段を上がったところには朱塗の鳥居がある。そこまで来ると、道が開けたからか、詣でる人が少ないからか、今ままでの混雑が嘘だったかのように、どこか静謐な空気を纏っているように感じる。 「うわ、これ結構階段あるな」 「エスカー……エスカレーターの略? そっちでも上がれるみたいだね」 「んー、でも歩きたい気分です」 「そう? いいけど」 エスカレーターが野ざらしになっているとは考えにくい。となれば、狭いトンネル状の場所に短くはない時間滞在することになるだろう。流石に殺人の疑いのある像と半密室にいる度胸はない。鳥居を潜り、竜宮城を模したかのような門を潜る。そうして、眼前に広がる階段をひたすら一段一段上がっていった。 * * *
延々と続くかのように思われた階段も終わりが来て、視界が一気に開ける。辺津宮というらしいこの社は、様々な建物が並べられていた。 中央近くにある社務所では、上部に御朱印がずらりと並び、手前には御朱印帳や御守りなどが並べられている。参拝客が多くはないからか、五人ほど並んで座れそうな社務所の中は二人だけがいるようだった。 「あー、すみません」 「はい。いかがいたしましたか」 「ここって、龍に由縁があるんですよね」 「はい。正確にはその龍の妻である弁財天様をお祀りしております」 「ちょっとこれを見ていただきたいんですけど」 「はあ……」 御嶽の脇をつつき、穴の空いたトートバックから例の像を取り出す。頭の一つに血のようなものがついているような気がするのはきっと気のせいだ。 「これは、確かに龍のように見えますね。どこにあったんですか?」 「ええ、と。まあ、片瀬海岸のところに」 「そうですか……いえ、天王祭を思い出しまして」 「天王祭、ですか?」 話を聞くに、かなり有名な祭りのようだ。この辺津宮の末社の一つに八坂神社というものがあるらしい。江戸時代、片瀬海岸にあった小動神社が台風にあい、その本尊である建速須佐之男命の像の片割れともども流されてしまったという。当時このあたりを漁場にしていた大海士(男の海女だそうだ)が像を見つけ、八坂神社に納めたそうだ。 いつしかそれが祭りとなり、毎年七月にその像を乗せた神輿を担いで海を渡り、再建された小動神社で対の像に会わせる、というものになったのだとか。その時に使われる像によく似ている気がする、と。 「へえ……可能であれば、その像を見せていただくことはできますか?」 「申し訳ありませんが、祭りのとき以外にご開帳することはできかねます」 「ああ、そうですよね…すみません、無理を言って」 「いえ。こちらこそお力になれず。ああ、そうだ。五頭龍ではありませんが、岩屋の奥に龍の像がありますよ。確か、天王祭の展示もあったと思います。よろしければ行ってみてください」 「わかりました。ありがとうございます」 一礼をして社務所を後にする。手がかりと言えるものなのかなんなのかは全くわからないが、今はこれしか情報がない。神主が言う祭りに使われる像が収められている八坂神社はすぐ近くにあるようだ。 八角形をした朱塗の柱の建物を通過した先、敷地内をいくらも歩かないうちに、その社はあった。少しばかり奥まったところにある社の前には、短いながらも整備された石畳の参道があり、両脇を石灯籠と狛犬が固めている。木々に囲まれたその社は、それなりに新しいもののようだ。縁起を見れば平成十三年、およそ二十年前に再建されたものだという。 賽銭箱の前に吊り下げられた鈴、そこから賽銭箱にぶつかるほど長い鈴緒、軒先には注連縄がが巻き付けられていて、そこから御幣が下げられていた。賽銭箱には見事な金の三つ巴があしらわれている。 当然の如く、本殿の門扉は固く閉ざされており、中を窺うことはできない。人が通っていないわけでもないため、こじ開けるわけにもいかない。面倒ではあるが、どうしても見たければ人のいない夜間に来るのも一つの手だろう。 「天王祭、ねえ」 「何かあると思います?」 「んー……あ。これ見て」 「うわ、胡散臭」 御嶽が見つけたのは、インターネット掲示板の書き込みだった。天王祭の起源となる出来事にある大海士が見つけた建速須佐之男命だとされている像は別のもので、名のある術師が化け物を海に封じたものだったのだ、という。時折像から化け物が出てきて暴れるため、江ノ島にある八坂神社に奉納し、祭りと祝詞でそれを鎮めた、と言うものだ。 「御神体が暴れるってどう言うことなんですかね」 「菅原道真が好き放題したようなもんなんじゃないの」 「祟ったのは霊魂であって御神体そのものを動かしたわけじゃ無いですよね?」 「似たようなものでしょ」 「似てますか……?」 さて次は、と社を過ぎて次の中津宮へ進もうとすれば、すぐ傍に大きな銀杏の木がその枝葉を真っ直ぐ空に向けて伸ばしている。注連縄をかけられたその樹を囲うように絵馬置き場が建てられていた。その前には「むすびの樹」の立て札があり、どうやらこの樹が縁結びのご利益があることが伺える。 「二つの絆が一つの根で結ばれる、ねえ」 立て札には続けて、この大銀杏に肖り、二つの心を一つに結び良縁を成就させましょう、記されていた。見れば、元は同じところから生えていた二本の樹が別れたようにも見える。別の道に進んでも根元、帰る場所は同じ、と言う解釈なのだろうか。こうして既に縁が結ばれているのだから、自分には関係のないことだ、と結論付ける。 振り返ることすらせず、全くまるで気にする素振りすらなく先へ行ってしまった御嶽の背を追いかけ、月兎耳はそこに結ばれたたくさんの願いの前を通り過ぎた。 階段を少しばかり下り、参道を進む。店があるわけではないが、最初の通りから辺津宮までよりもずっと整備された階段は歩きやすい。エスカー乗り場を素通りし、再び現れた階段を上がれば朱塗の社殿が見えてきた。ここが中津宮のようだ。先程の境内にも朱塗の建物はあったが、社自体はどれも木材そのままだったため、随分と異なる印象を受ける。神社自体に興味は互いにないため、順路に沿ってそのまま通り過ぎることにした。 「よくこんなところに住んでるよね」 「確かに。引っ越しは早々しないでしょうけど、冷蔵庫が壊れたりでもしたら大変そうですね」 さらに奥へ進んでいくと、長い石段が民家の脇を通って上へ上へと続いている。車も入れないような場所にある家を見かける度に、引っ越しやら大型家電の買い替えが大変そうだ、なんて考えて肩をすくめた。目の前は、依然として長い階段が続いている。 しばらく黙々と階段を上がっていけば、開けた場所に出た。右手奥に塔のようなものが見える。手前は植物園になっていて、その敷地内にあるようだった。そういえばこの塔は下からも見えたな、と今更思い出す。どうやら灯台のようだ。ここは亀ヶ岡広場というらしい。 レストランかカフェのようなものがあるが、まだ休憩はしなくても問題がなさそうであるし、この気味の悪い像をどうにかしてから灯台にはまた来るとして、ここも素通りする。 と、すぐそばで再び悲鳴が上がった。見れば、またすぐ近くで血の池ができている。傍らに人の姿はない。ひとりで来たのだろうか。肉片が飛び散り、骨が突き出し、辺りに臭気が充満する。 「……御嶽さん」 「うん。行こう」 言葉少なに階段を降り、山を二つに割ったかのような崖を通る。その頃には塩の匂いが強くなってきていて、鼻の奥にこべりつくような結集はかなりマシになっていた。生しらすの旗を靡かせている店が数店舗並んでいるのを見て、まだしらすを食べていない、ということに気がついてしまった。さっさとこれを解決して、夕飯はゆっくり食べたいものだ。うまくいけばいいのだが。 そうして、目の前に社が現れた。ここが奥津宮だ。辺津宮とも、中津宮ともまた雰囲気が異なる。小さな島にいくつもの神社があって、その全てが全く別のものに見える、というのは面白い。ここは、他のふたつの社とは違い、本殿に直接手を合わせることはできないらしい。 「ねえ、見て」 「どうしたんですか?」 御嶽さんが示す方を見てみると、この社の隣に鳥居があり、その先に大きな龍の姿が見える。龍宮というらしい。石垣のように作られた祠の上に据え付けられた大きな龍の像がこちらに睨みを効かせている。角が二本に立派な髭、頭より大きな前足に迫力はあるものの、頭が五つあるわけではない。 「ここの龍の頭はひとつなんだ」 「御嶽さんが持ってる像、やっぱりあまり関係がないのでは?」 「あ、ここ最近できたみたい」 「そうなんですか?」 「平成六年創建だって」 「隣と一五〇〇年差があるってことじゃないですか」 「変なの」 祠の中は何も見えない。期待はしていなかったが、特段の手がかりはなさそうだ。踵を返して鳥居をくぐり、先に進めば、後はひたすら急な石段を下っていくだけだ。人がなんとかすれ違える程度の狭い道、しらす丼の幟が数本立っている横を通り過ぎて、道をひたすら進んでいく。 それを抜ければ、目の前に海が広がった。ちょうど島の入り口の反対側に出たところだろうか。磯が見えてきたあたりで、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っているのが見える。何から逃げているのかはここからではよく見えない。 階段を下りきれば、こちらに人が殺到してきた。人波に押し出され、いつの間にか広い磯に追いやられてしまう。 そこにいたのは、人の形をとった頭部が魚の化け物だった。全体的に灰色がかった緑色で、腹部だけが陽光に反射してやけに白い。皮膚は粘膜に覆われているのか水にぬれているのか、つるつるとしているように見える。人間に似ているが、頭部は魚で、その目玉はぎょろりと飛び出し、首にはえらがぱくぱくとその内側の肉を見せていた。 こちらを見たその魚人、瞬間、狙ったかのように向かってくる。明らかな異形。怪物。化け物。そう形容するしかない容姿をしていた。数体が海の中へ戻ったのが見える。水飛沫は上がらない。残った一体が、何かをうめきながらこちらに向かって鋭い爪を振りかぶってきた。 それに向かい、月兎耳が下段へ足を振り抜き、体勢が崩れたところに少し遅れて御嶽が腹へ拳を入れた。その威力にバランスを崩しフラつきながらも、化け物は御嶽にその鋭い爪を振るう。しかしながらダメージが残っていたのか、距離感が掴めなかったのか、その皮膚に届くことはない。次いでその隙を狙おうと月兎耳がフェイクを入れた隙に、御嶽が脳天に踵落としを綺麗に決めた。 化け物は息の根が止まったのか、それとも単に気絶をしただけなのか、ピクリ、とも動く様子はない。 「……死んだ?」 「とりあえず、もう動かなさそうですね」 「ええ、どうするの、これ」 「うーん、とりあえず警察でもどこかの研究所にでも任せておけばいいんじゃないですか」 「そうだね。面倒だし」 「とりあえず行きましょうか」 「うん」 人気がなくなったとはいえ、大して大きくはない島だ。逃げ出した観光客もそう遠くには行っていないだろうし、次の観光客も時期に来る。謎の魚人のために少し騒がしくはなるだろうが、ふたりが肉弾戦で倒せる程度であれば、どういう種族であれ問題にはならないだろう。 「でも、化け物が何言ってるんだか」 「なあに、御嶽さん、あの化け物が何か言ってたんですか?」 「返せ、だって。やなこった」 御嶽はそう言って、像の入ったトートバッグを抱え直す。扱いはあまり丁寧には見えないのに、像に執着をしているように感じる。その様がどうにもちぐはぐで、月兎耳は首を捻った。 「ね、なんでそんなにこの像が気に入ってるんです? そういうのが趣味なんですか?」 「はあ? 趣味なわけないでしょ」 「ですよね。なら、なんでまた」 「んー、改めて聞かれるとよくわかんないけど」 「けど?」 「手放したくない、と思う」 「ふうん」 「何でだろう?」 「御嶽さんがわかんないのに俺がわかるわけないじゃないですか」 「それもそっか」 磯の脇の一本道をぐるりと歩いてすぐ、岩屋が見えてきた。この辺りまで逃げてきた人たちもどうにか落ち着いているようで、興奮したように何やら喋っている。岩屋自体は観光地化されており、入り口に係員が立っていた。入場料がかかるらしい。 月兎耳はふたり分の千円を支払い、中へ進む。少し入ったところで、手燭が貸し出されていた。木勺の上にアルミカップに入れられた小さな蝋燭が置いてあり、落ちないように和紙が巻かれている。正面に図柄が描かれており、五頭龍、亀、弁財天の三種類。 御嶽が龍を手に取ったので、月兎耳は弁財天にした。普段信じることは全くないうえ、今回通ったすべての社も特段参ることもしなかったが、どうせなら験を担いでおきたいところではある。 波の侵食でできた洞窟だというが、それにしても随分と奥まっている。どうやら順路が決められているようで、最初の二股は左手に進んだ。道の両脇には石仏が等間隔で並べられていて、長きにわたって信仰されてきたことを窺わせる。 奥は行き止まりになっていて、一層狭く深い穴がこちらを覗き込んでいた。傍の看板には「富士山に通ずる、と言い伝えられている」とあるが、本当なのだろうか。確かに方角的にはあっているに違いはないだろうが。 頭をぶつけないように元来た道を通り、反対側の道へ。こちらの突き当たりには『江島神社発祥の地』という看板が立っていた。この真上に当たるのが、先ほど通ってきた龍宮にあたるらしい。そういえば、マンガでは江ノ島神社の縁起は西暦五二二年となっていたか。龍宮がきちんと建てられたのが平成に入ってからというだけで、元々岩屋が冠水する時は地上に祠が映されていたらしいのだから、信仰自体は存在していたようだ。 元来た道を戻り、もう一つあるという岩屋に向かった。中と外の気温差がひどい。磯の横にある整備された道を歩いていると、途中に見事な亀の像が置かれている。石を掘ったもののようで、今にも動き出しそうなほど生き生きとして見えた。先ほどの蝋燭の亀はこれか、と勝手に納得しておく。 第二の岩屋に入った途端、何か乾いた音と、ゴロゴロと低い音が聞こえてきた。何事かとそちらへ向かってみれば、なるほどこれが神主の言っていた龍のようだ。精巧に掘られた石造の龍が赤紫にライトアップされ、ゴロゴロと音響が響いている。どうやら手を叩くと雷のように音が鳴る仕組みらしい。 「……これが龍かあ」 「まあ、確かに観光地の置物! って感じがしますね」 「それにしてもこのライトアップ何? ちょっとダサくない?」 「とか言いつつ手は叩くんですね……まあ確かに、もうちょっと演出はあるのかな、と思いますけど」 ふたりして数度手を叩いた後、やりたそうな顔をしている男の子に場所を譲り、また元きた道を戻ることとする。 最後の出口付近だけは、パネルがいくらか展示されているようだ。江ノ島の縁起にまつわること、神主に教えられた八坂神社の天王祭のこと、この辺りの地理に関することなどが記載されている。 天王祭には、屋根に三つ巴が四方に三つずつ描かれた神輿を担いで海を渡っている様子が飾られている。キャプションに書かれていることは神主から聞いたこととあまり差異はないが、小動神社で奏上される祝詞が変わっている、と短いながら繰り返されるその内容が記されていた。 「へえ、祝詞ってこういう事言ってるんだ」 「お祓いとかしてもらったことあるんですか?」 「ないけど。でもお経みたいに何言ってるかわかんないのかと思ってたから」 「確かに。書かれてることは思ってたより意味わかりますね」 内容は五穀豊穣、海上安全、大漁満足を祈願するもののようだ。像が元の場所に帰還することを祝うにしては妙ではあるが、もしかすると五穀豊穣を願う祭り自体は元からあったのかもしれない。 その横に、小動神社の本尊である建速須佐之男命像の写真と、浮世絵に描かれている建速須佐之男命が並べられていた。本尊の写真は、御嶽が持っているものに違いなかった。 「……御嶽さん」 「……なあに?」 「……これ、さあ……」 「…………うん」 ここにくる途中で見つけたオカルト話が本当だとすると、毎年祭りをすることで、本当に像に成っている化け物を封じている可能性が非常に高いどころか、もはやそうとしか考えられなくなってしまった。 「これ、どこまで再現する必要があると思います?」 「要は祝詞なんじゃないの。この掛け声も一定の効果はあると思うけど」 「そうですね。流石にオレたちが神輿を用意するのは無理ですし」 「ん。いや、確か八坂神社に三つ巴がいろんなところにあしらわれてなかった?」 「そうでしたっけ。この神輿にもありますね」 「そもそも、祭りが終わった後に一年間像が暴れないように封じ続けるためには何かしらの仕掛けが必要だと思うんだよね」 「じゃあ、あの社自体が像を封印してたってことですかね……なら、三つ巴を書いた紙を貼っておけばある程度の効果はあるかもしれませんよ」 そう言うと、月兎耳はポケットに突っ込んだままの手帳を取り出し、三つ巴を見様見真似で書き始める。少しばかり線が歪んだものの、まあ見れないことはないだろう。 「本当にやるの?」 「やりますよ。もう少し広いところにしようと思いますけど」 「じゃあ、あの磯のところまで行く?」 「……まあ、しょうがないですね。またあの魚人みたいなのが出て来ないといいんですけど。そういえば、あの化け物が言ってた『返せ』って、この像のことでしたよね」 「あげないけどね」 「んんん、御嶽さん」 全く首を縦に振る様子のない御嶽に、月兎耳が話を遮るように声を上げる。 「何?」 「これ、本当に持って帰りたいんですか?」 「そうだけど」 「ヤバいやつじゃないですか」 「まあそうだね」 「どうしてですか?」 「……さあ」 煮え切らない返事に、月兎耳は御嶽を真っすぐに見つめる。御嶽は何がそこまで引っかかっているのかまるで分らない、といった様子で首を傾げた。 「……じゃあ、これ。御嶽さんがやってくださいよ」 「どう言う意味?」 「祝詞を唱えるの」 「なんで?」 「それをしないなら、持って帰らせるわけにはいきませんいよ」 「月兎耳には関係ないでしょ」 「ある」 一度言葉を切り、ひとつ、大きく息を吸う。 「ありますよ」 「どうして」 「誰かの命が失われるようなものがあって良い訳がない、し」 「し?」 「……御嶽さんが」 「俺が?」 「損なわれて欲しくない」 「ふうん」 そう言った御嶽は、面白いものを見たかのように口端をあげて月兎耳を見返した。狭い岩屋の中、向き合う二人を奇妙なものを見るかのように人々が通り過ぎていく。 「まだダメ?」 「もうひと声」 「……こんな変な像じゃなくて、オレを欲しがってよ」 「……わあ」 「ちょっと、御嶽さんが言えって言ったんですけど?」 驚いたかのように目を見開いた御嶽に、月兎耳が口を尖らせて不満そうに言った。 「ん、ああ、いや、ごめん。びっくりして」 「……いいけど。で?」 「うん?」 「満足した?」 「した」 「よし」 そうして、ふたりで並んで岩屋を出る。手順を確認しながら進んでいけば、いつの間にか稚児ヶ淵までたどり着いていた。先程の惨劇は既に忘れられたかのように、人々は磯で思い思いに過ごしている。 「じゃあここでやりましょうよ」 「ここで?」 「オレ、この像を持ったまま船に乗りたくないんで」 言いつつ、先程三つ巴を描いたページを手帳から千切り、御嶽に手渡した。御嶽は、渋々それを像に貼り付ける——ものは持っていなかった上にずっとその体制でいるのも面倒だったので、飛ばないように像の首に巻いてそこを持った。その時、ばしゃり、と水の跳ねる音。次いで、方々から上がる悲鳴。 「お出ましだ」 「御嶽さん、早く!」 「うるさいな」 再び襲ってきた魚人は先程より体も大きく見える。ガラガラと聞き取りにくい声で、仕切りに返せ、返せ、と唸っているのがわかる。 「掛けまくも畏き建速須佐之男命、恐み恐み白さく」 一際大きな個体が、御嶽の持つ像に向かってその手を伸ばしてきた。そこに、御嶽を庇うように立っていた月兎耳がその手を蹴り退ける。 「大神の高き尊き大神徳を蒙り奉らむとして存す」 後方に控えるもう一体が、ジリジリとこちらへの間合いを図っているのが見える。 「御喪無ぐ事無ぐ、伊相雨風折に叶ひて、豊かに向栄に成し給わむとして存す」 先程の蹴りの衝撃か、それとも足場の悪い磯での行動に慣れていないのか、魚人の足取りが少しふらつく。 「御喪無ぐ事無ぐ、伊相荒涛より守り恵み給ひて、海幸船腹に満ち続けむとして存す」 月兎耳は、後方の魚人も含め、どんな動きをしても反撃ができるよう、その様を観察している。 「御喪無ぐ事無ぐ、伊相遍く幸く真幸く守り幸へ給へと恐み恐み白す」 御嶽が唱え終えた瞬間、その手元から眩い光が迸り、像を包み込む。首に巻かれた紙に月兎耳が描いた文様は消えてしまっているようだ。 その様子を見た魚人が、激昂したかのように襲いかかってくる。月兎耳は御嶽に向かってきた一体に蹴りを放ち、たたらを踏ませた。 激しくなる攻防の後ろで、しばらく手中にある像を眺めていた御嶽は、何を思ったかその手を振りかぶり、たたらを踏んだ魚人に投げつける。完全に不意をつかれた形の魚人は、頭にぶつかった像がそのまま岩場に落ち、その首が折れる様子を呆然としたように見つめた。 隙を逃さず、月兎耳が腹を目掛けて蹴りを叩き込む。よろめいた魚人は数歩よろよろと後退し、そのまま背中から海の中へと帰って行った。 「え、終わった?」 「多分、そうなんじゃない」 「御嶽さん、あの像壊れたというか壊したというか……よかったんですか?」 「うん。なんか飽きた」 「ええ? じゃあ、まあ、帰りますか」 あれだけ大騒ぎをしたとはいえ、終わりは存外あっけないものだった。ちらほらと様子を遠巻きに見ている人たちが、やがて何事もなかったかのように通りすぎていく。 御嶽は折れた首と像の本体を持って磯の淵まで行き、そのまま海に投げ捨てた。いつの間にか陽は傾き、遠く船が行き交う海原を朱く照らしている。 「ねえ、月兎耳」 「どうしましたか?」 「海鮮丼が食べたいんだけど」 「……そうですね。オレも腹が減ってきました」 島と本土にかかる橋まで渡してくれる船に乗りこむ。間もなく出発した船から、江ノ島を見上げた。切り立った岩場に生い茂る緑から、白い灯台が生えているのが見える。社殿は見えないが、この島自体が神聖なものとして信仰の対象とされると同時に、生活に密接に関わっていた場所なのだろう。 そもそもあの像は何なのか。どうしてあの像が八坂神社に祀られることになったのか。祭りの成り立ち。今年もつつがなく祭りは執り行われたにもかかわらず、封印の儀式が失敗した理由。どれも何もわからない。 わかるのは、古くから人々に愛されてきたこの島に、二度と血色の暗雲が立ち込めることはない、ということだけだ。