「先生、桜の下に死体があるって話なんですけれど」 繁華街の中心にある、とある雑居ビルの一室。茶葉を急須に入れながら、夕月が切り出した。ゆったりとした革張りの回転椅子の上で愛用のパイプを咥え、煙を長くくゆらせながら新聞を広げていた楠は、その言葉に顔を上げる。 「ああ、『桜が薄紅色をしているのは、その死体の血液を吸い上げているからだ』という話かな?」 「それです! でも、それって本当なんですか?」 良く聞く話だ。由来は知らない眉唾物の都市伝説だが、それが本当のことだとはまるで思えない。夕月はふんわりと笑みを浮かべる楠に茶を出しながら首を傾げた。窓の外を見やれば、件の花弁がひらりひらりと横切っていく。 大した高さのビルではないにしろ、見下ろせばそこここで艶やかな薄紅が咲き誇っていた。混じり気のない毬のようなそれが通りを彩っており、その下を通る人々が時折見上げては足を止める様もよくよく見受けられる。 「結論から言えば、創造、創作かな。妄想と言ってもいいね」 傍らのパイプレストに葉がこぼれないように丁寧に愛用のパイプを置いた楠は、新聞紙を机の上に几帳面に畳んだ新聞紙を置く。そうして差し出された湯呑を取り上げた。片眼鏡を曇らせるそれをのんびりと啜り、腕を上げたねえ、と微笑む。 ありがとうございます。漆塗りの見事な丸盆を抱えて元気よく返した夕月は、それで、と続きを促した。妄想、ですか。 「確か短い話だったような気がするんだけどねえ……ああ、そう、梶井基次郎だ」 ひとつ頷いて、楠は茶請けに出された煎餅の包みを破る。醤油の香ばしい香りが、立ち上る湯気と混ざり合ってどことなく気が緩むような。そんな、長閑な空気。 「君は、桜を見てどう思う?」 「どう、ですか?」 「うん。満開の桜が美しい? 春の訪れを感じる? それとも、桜餅だったりするかな?」 「そう、ですね……」 穏やかにそう問われ、夕月は抱えていた丸盆を片付け、自身の分の茶を淹れながらしっくりとくるものを探していく。ああでもないこうでもない、と暫く考えたのち、ああ、と思いついたように声を上げた。 「お花見だとか桜吹雪だとか、入学式に卒業式……たくさんあって迷いますね」 「そうだね。桜にもいろいろな顔があるから。その中でもこれ、というものはあるかい?」 いろいろな顔ってなんだろう。内心首を傾げながら、夕月はその中で一番を思索していく。そうすれば、自ずと共通する風景が脳裏に浮かんだ。 「あの、先生。いろいろ考えてみたんですけれど。やっぱり、散り際が一番きれいだと思います」 「それは素晴らしい」 湯呑を茶托に置いた楠は、ずり落ちてきた片眼鏡を押し上げて続ける。 「昔は、春の花といえば梅だ、ということは知っているかい?」 「はい。でもそれって、今と美しいものの定義が違うからってことなんでしょうか?」 ほんとうに、そう思うかい。小首を傾げる夕月に、楠は椅子に背を預け、腹の前で両手を組む。そうして、ゆったりと問い返した。 「君は、梅を美しいとは思わないのかい?」 「……それは、思いますけれど。でも、どうしても梅よりも桜のほうがイメージが強くって」 そうだねえ。今はもうすっかり春といえば桜だからね。うんうん、と頷く楠は、よくできた生徒の答えに満足そうに頷いた。 「昔はね、すぐ散る桜は不吉で、移り気だ、なんて敬遠されていたものだよ。江戸時代になって、明日命が散る心配をしなくても良い、太平の世になったから、なのかもね」 「ええと……それで、死体がどうのっていうのは?」 「桜が美しいってことだよ」 短い話だから、君も読んでみるといい。彼の妄想と不安を垣間見えるよ。なんて嘯く楠は、夕月の問いに答えることなく手にした煎餅を齧る。途端に響く食欲を誘う音。 応接用のソファに腰かけた夕月は、同じように煎餅に手を伸ばしながら、窓の外へと意識を飛ばす。パイプから立ち上る細く長い煙が、青空にひらりと舞う花弁と戯れているようにも見える。そういえば、子どものころは舞い散る桜を捕まえられるか試したなあ、なんて。
明日ありと、思う心の徒桜 ――明日はどうなるかわからない、ということ