5
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 ——ヨハネの福音書 十二章二十四節
再び訪れたその場所は、降り続ける雨でけぶって見えるせいか、陰鬱な雰囲気に拍車がかかっていた。きのう訪れた時から何か変わった様子は見受けられない。否、変わっていることはある。——どこからともなく、低く唸る機械の駆動音が聞こえてくる。屋敷の左側、ほとんど焼失してしまっている方からだ。 黒く焼け焦げた梁から滝のように雨が流れ落ちているのを尻目に、裏手へぐるりとまわり、音の発生源へ歩みを進める。ついた場所には何もない——否、音は地面の下から響いているようだ。 ぬかるんだ芝の禿げた道から切り替わった石畳。注意深く探してみれば、その隙間に不自然に雨水が入り込んでいる箇所がある。自然とできたものではなく、排水のために計算されたものでもなく、明らかにその場所へ雨水が落ちているとわかる。規則正しく配列された石畳は、中央のその場所だけがやけに水捌けがいい。石畳の配置に不自然な所は何もなく、雨が降っていなければまず気付くことはできないだろう。きのう見つけられなかったのも道理だ。 石の隙間に指をかければ、思っていたよりもあっさりとそれは持ち上がった。現れたのは地下へと続く階段。灯りのないそこは、どの程度の深さがあるのかはわからない。しかしながら、先ほどよりもはっきりと聞こえる駆動音が、目的地がこの先であることを明示していた。同時に、水に濡れていないせいか、屋敷の地表部分とは比べ物にならないほど強烈な焦げ臭さが鼻をつく。五年前に「儀式」が行われていた場所が、この先にある。 ハンドライトをつけて階段を降りていけば、かつかつという靴音、地面に叩きつけられる雨音をかき消すかのように、どどどど、という駆動音が大きくなっていった。降り切った先は短い廊下になっているようで、その先の部屋らしき場所から人工的な青い光が明滅している。そこが火元だったのであろう、空気が通らず澱んだままこべりついた焦げ臭さ。ここから見える扉があったらしき場所は真っ黒に焼け焦げた跡が残っていて、火災の凄まじさを物語っていた。 部屋をのぞき込めば、それなりに広い空間だ。儀式をする空間として必要だったのか、青白い光に照らされた壁は石を削り出したかのようで、どこか洞窟めいた薄気味悪さを感じさせる。その光源はどうやらテレビのようで、雨のせいで地上に立てたアンテナの写りが悪いのか、画面は砂嵐が映し出されていた。 部屋唯一の光源であるテレビの光を受け、男の背中がこちらに向いている。その向こう、部屋の中心に位置する場所にはベッドが据え置かれていて、周囲を大小様々な機器に囲まれていた。器具から数多の管に繋がれたその先、ベッドの中。テレビに照らされるその顔は、探していた栞のものであった。駆動音は部屋の奥からしているようで、おそらく、この部屋にある機器の電力を賄うための発電機があるのだろう。 男は何か本を読んでいるようで、こちらに気づいていない。 「さて、どうします?」 「十中八九、紡くんだろうね」 「うーん、でも、これ、栞ちゃんが核ってことなんすよね?」 「……じゃあ、発電機を止めるか」 中に入ってからの行動を簡単に打ち合わせる。『亞書』の核である栞をどうにかするのが一番手っ取り早い。つまり、その身体をどうにかするか、生命活動を維持するための装置を破壊するか——その装置を動かしている電力供給源を破壊するか。 「オレ、部屋の外でちょっと待機しておこうかな」 「ああ、じゃあ俺はできることもなさそうですし、紡くんの気でも引くことにします」 「そうだ。部屋の隅に棚みたいなのがあったんだよね。僕はちょっとそっちを見てみようかな」 「なら、僕も行きますよ」 一日半という短い期間ではあるが、濃密な経験を共にしているだけあり、役割分担はさっさと決まる。いざ実行しようとしたとき、月兎耳が何かに気付いたかのように周囲を見回した。 「……あれ、花布ちゃんは?」 「そういえば。降りてきてないんすか?」 「ううん、明らかに最終決戦、って感じだし、危ないから上で待っててくれるならそれでいいんじゃないかなあ」 「……そうですね」 あれだけ都市伝説である『亞書』に積極的に関わっておきながら、最後の最後に抜けることに違和感を覚えつつ、目の前のことへと意識を切り替える。顔を見合わせてひとつ頷いた。そうして静かに中に入った白石に続く。右側の棚には、ランタンと栞の病室にあったような枝の生けてある花瓶が並べられている。枝に刻まれた魔術も同じ。対になっているものだろうか。 「君は、紡くん、だよね。架倉紡くん。違う?」 後から入ってきた樋田が棚と反対側へ周り、声をかける。樋田を見、自然とこちらに背を向ける形となったのは、以前病院ですれ違った、幻視の中で見た、金髪の男。前院長の息子。栞の兄。架倉紡だった。 「あなたは……なんだ」 「俺はしがないオカルト雑誌記者だよ。ここで五年前に起きた事件を調べていてね」 「出ていってくれないか。ここは私有地だ。肝試しなら他を当たれ」 「肝試しじゃないさ。君も当事者だった、そうだろう? 当時の話を、少しばかり教えてくれやしないか?」 「……何を知り、どうやってここまで辿り着いたかは知らないが、俺には妹の命がかかっているんだよ」 「へえ。君は、妹さんの命さえ助かればいいって言うんだ。他の誰もが、世界中の誰もが死んでしまうとしても」 「そんなの当然だろう? 俺は妹さえいればいい。俺は栞の兄で、栞の唯一の家族だ。俺が見放して仕舞えば誰が栞を助けてくれるんだ? 誰が栞を救ってくれるんだ!?」 「それを、本当に栞ちゃんは望んでいると思うのかい? 誰も彼もの命の上に立つことを。君の妹は、本当に望んでいるのかい?」 「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 栞は、こんな機械に囲まれていても、もう死んでしまうんだ! 俺はできる。俺には栞を助けられる! 同じ状況で同じ手段があって、それ以外で家族を救ってやれないなら、あんたはどうするんだ。俺は、たった一つでも手段がある限り、栞を見捨てない!」 「見捨てない。それは素晴らしい。具体的には?」 「……栞は誰にも殺させない。俺の邪魔をする奴は、全員、排除する」 紡は手袋を外し、その掌をまっすぐ樋田へ向けた。そうして、ぶつぶつと何かを唱えると、どこからともなく黒い塊が現れた。ひとつ、ふたつ、みっつ……七つ。 それは絶えず形を変化させながら蠢いていたが、いつの間にか白濁した何かがそれを覆う。次いで塊から手のようなものが、足のようなものが生え、ついには頭部が形成される。赤子だ。生まれたばかりの瑞々しい白い肌はどこか水死体のように膨れていた。個性を表す顔の中心にあるはずの鼻はなく、両目は黒い糸で乱雑に縫い合わされており、その縫い目から絶えず内包する黒い何かが染み出している。開いては閉じる口は割いたかのように大きく、歯をのぞかせていた。 七つの黒い塊から、七体となった赤子が、こちらに向かってくる。
パン
不意に、乾いた音が空気を切り裂いた。月兎耳だ。暗い地下室でも色のついたサングラスを外さない男の視線の先はわからない。しかし、その手に握られた拳銃から硝煙が立ち上っているのが見える。その腕の先には、この部屋の電力を全て生み出している発電機があった。瞬間、一定の間隔で刻まれていたリズムが止まる。部屋の唯一の電力の供給が止まる。部屋は呑まれたような暗闇に包まれた。 「な、お前、何を……!」 塗りつぶされたかのような暗闇の中、激昂した紡がいるのであろう方向に、真っ白な歯と真っ赤な舌が覗く。ぼう、と浮かび上がったそれは、外からの微かな光に照らされていた。その口が理解のできない何事かを叫ぶ。と、床を這っていた生白い赤子がそれぞれに向けて動き出した。 これで『亞書の核』である栞は、時期に生命であることをやめるだろう。ここに留まる意味はない。しかし、いかんせん暗い上に赤子の数が多い。紡は部屋の中央で何事かをぶつぶつとつぶやいている。暗闇に浮かぶ口は紡の居場所と等しいのか、動く気配はない。 こちらにやってきた赤子を蹴り飛ばす。異形であるならば遠慮をする必要もない。経験上、こういった『本来あるべきところにないもの』や『ないはずのところにあるもの』を備えている生物は厄介であることが多い。その動きが予想できないことも含めて。 飛んでいった赤子は、まだ目から黒い膿を出しながら人間とは思えない悍ましさで蠢いている。次いでやってきていたもう一体を跨ぎ、体を捻りながら反対側の足で回転するように蹴り上げた。 浅い。とどめを刺そうとした後ろ足を別の赤子に引かれ、体勢が崩れる。しまった、と思った時には遅く、赤子が這い上がり、その手と顔にある口で噛みつかれた。肉が引きちぎれたかとすら思う痛みにぐう、と呻き声が漏れる。 体勢を整えようと顔を上げたとき、樋田も足にまとわりつく赤子を振り切れず、這い上がられているのが目に入った。白石は小さな赤子にうまく対応できていないようだ。月兎耳の銃声が断続的に響くものの、どうなっているのか判断できない。 「栞!」 部屋の中央から悲鳴が聞こえる。どうやら栞は、『亞書の核』は、その生命活動を止めたらしい。と、その方向からびちゃり、と何か液体のようなものが床に垂れる音がする。粘性のあるその液体は、どんどんと部屋を満たしているように感じる。 「出るぞ!」 月兎耳の声。噛みついている赤子を引き剥がし、踏みつける。ぐちゃり。内包した粘液が溢れたのか、床に広がる液体なのかわからない。ペンライトで照らされた入り口へ走る。部屋の入り口から中を振り返れば、ベッドに横たえられた栞の目から口から耳から溢れ出す黒い液体を優しく拭い取り、その額に自身の額をこつりと合わせる紡の姿があった。 「なあ……栞としたいことがたくさんあったんだ。でも、栞に何もしてやれなかった……ダメな兄ちゃんでごめん……ああ、もう一度、栞とピアノが弾きたいなあ」 その瞳が静かに閉じられる。祈るようなその姿は、黒い液体に静かに飲み込まれていく。そこまで見て、階段へ足をかける。これ以上見るべきものは何もないとわかるから。 「ありがとう、お兄ちゃん」 背中の向こうからそんな声が聞こえた気がした。
* * *
真っ暗な地下から外に出ると、曇天でもどこか眩しく感じる。先ほどよりも雨足が強くなった気がするのは、気のせいではないだろう。全員が階段を上がり切った時、鈍い音が頭上から聞こえた。慌てて離れれば、つい先ほど出てきた場所、地下室への入り口を塞ぐように、焼け残っていた洋館の柱が折れ、梁ごと倒れてきたのだ。 周囲に重たい音を響かせながら地面を揺らし、入り口を完全に塞ぐ形となった梁を退かすのは人力では到底不可能だろう。長年雨風に晒され、傷んでいたのだ。この豪雨がとどめとなったに違いない。 その梁の隙間から、一瞬黒い液体が溢れたのが見えたが、雨水とともに地下へ押し込められたように見える。あの地下は、一体どうなったのだろうか。万が一、この梁を退かすことができたとしても、地下の惨状は想像に難くない。 「善行のために悪を方途とした敬虔なる悪徳の信徒よ。死の上に立つ生の味は甘いかね?」 その声が聞こえたのは今しがた梁が倒れてきた屋敷の二階部分からだった。そこには、地下に降りるまで共にいた花布が、梁の上でくるりくるりとオルゴール人形のように回っている。花柄のポップな傘が、焼け焦げた屋敷と曇天からやけに浮いて見えた。 「花布ちゃん……」 「今君の口から出かかった言い訳に意味はないよ。君は人を殺した。何かの代償に人を殺した。今回はその何かが、たまたま世界のためというわかりやすい大義名分だっただけ。それは、今日履いている靴の色が白だったから、なんて言って人を殺す輩と本質は何も変わらない。世界のためか気分のためか、言葉上の違いしかない。君は、君たちは自分のエゴの赴くまま、自らの意思で栞ちゃんを殺す選択をしたんだ」 至極楽しそうに、くるりくるりと周りながら、歌うように花布は言葉を紡ぎ出す。まるで全てを見てきたかのように。生命に重さをつける算段に混じっていたかのように。 「予言しておくけれど、君は、君たちはまた人を殺すよ。次はそれがまた、世界のためかもしれないし、君たちの大切な人を守るためかもしれない。もしかしたら脳死状態になった、たった一人の家族を救うためかもしれないね。その時、君は、君たちはきっとまた、人を殺すよ」 くるりくるり。傘を回しながら、雨に喜ぶ子どものように無邪気に笑む花布からは、こちらを責める気配はない。まるで投げたボールを拾ってきた仔犬を撫でるような、慈しみの情すらあるように見える。 意図してそれとわからないように大きく息をつく。それは、心を落ち着けるための一種のルーティンだった。目の前で取りこぼした生命から思考を引き剥がすときだったり、どうにもやるせない結末から意識を切り替えるためだったり——人智を超えた怪物を前に立ち向かわなければならないときだったり。 精神に異常を来している人間ではこうならない。狂信の果てに禁忌に手を出してしまう人間とも。人間の姿形をとり、人間の感情で笑うこの女の思考は、どこまでも理性的で人間味があるにもかかわらず——その在り方は何よりも怪物的だった。 「君は、君たちは素質があるよ。私が見込んだ通り悪の素質が。中途半端に紡くんを生かそうとしていたあたりとか、ね。だからこれは大サービス! ゆっくり、じっくり、大切に。今は自覚のないその悪が、いつか大きく育った時に迎えにくる証」 花布がそう言って投げキッスをすると、月兎耳がうめいて右手をぐ、と握る。 「よろしく」 誰でもない声がする。それは、月兎耳の右手に横一文字についた切り傷のようなものが弧を描き、かと思えば大きく口を開いた。先の赤子のように白い歯と真っ赤な舌が覗く。 「あはは。かわいい。じゃあ、またね」 そう言って、花布はふわりと飛び上がると、煙のように消えた。雨は、降り続いている。
エピローグ
次の予約までしばらく時間がある。看護師にそう声をかけられて、休憩室へ向かおうと席を立った。新規外来の患者の間に入る常連の高齢者の相手をするのはどうも疲れる。 電灯が反射するリノリウムの床を、かけられる声におざなりに答えながら目当ての部屋の引き戸を開けた。入ってきたのに気付いて視線がよこされるのに手を振り、給湯コーナーでコーヒーを作って部屋の隅へ。白衣の裾をさばいて席に座り、湯気の立ち上るマグカップを傾けた。 「お、お疲れさん」 「またあなたですか。暇なんですか?」 「そんなに休憩かぶる頻度も多くはないだろ。つれないな」 「間に合ってます」 目の前の席が引かれたかと思うと、茶髪に染めた髪に四角いフレームの眼鏡をかけた同僚がニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。満月棘。付き合いだけは随分と長いのに、会話はいつもこの応酬から始まるのは不思議なものだ。 「あ、そうだ。前に言ってた『頭隠し』っつーの、迷宮入りらしいな」 「ああ……そうなんですか」 例の騒動から数ヶ月。そういえばそんな事件の名前だったな、と思い出す。国会図書館での事件から『亞書』の印象が強かったために、忘れたわけではないが、頭の隅に追いやられていたのは事実である。 「で、これ見てくれよ。一時期話題になった『亞書』と『頭隠し』が関連してるって。ホントのとこどうなのよ、古布森センセ?」 「さあ」 差し出してきた見開きのページには大きく『「アート」は魔術本の隠れ蓑!? ネットで話題! 『亞書』は「頭隠し」の元凶だった!!』と見出しが踊っている。週刊クルック。入手した本物の『亞書』をオカルト的視点で解析し、秘められた魔術の痕跡のことごとくを解説していた。現実にあるはずもない魔術を、あたかも現実にあるかのように解説し、当然のように誌面に掲載する。発動するための核が失われたため、二度と「頭隠し」が起きることはないだろう、と締め括られた後の著者名に見覚えがありすぎて、乾いた笑いが漏れた。 「まあ、今回はこの記事に免じて黙秘権を認めよう。記者さんによろしく」 「はいはい」 そういえば、この男もそういった方面のあれそれに巻き込まれた経験があるのだった。この手の魔術や、人智を超えた神のような何かが存在していることを知っている。誤魔化す必要がないのはありがたいが、そもそも話すのも面倒である。カラクリはほとんど記事になっていることだし、今の肯定で満足するだろう。 「あ、そうだ。どんな人と走り回ったわけ?」 「黙秘権を認めるんじゃなかったんですか?」 「最初から最後まで話せって言ってるんじゃないでしょ」 「そうですね……女好きで真実を撃ち抜く刑事と、柔和で本質をつく探偵と、だらしなくて真実を求める雑誌記者。それから、可愛らしくて狂気を飼う司書と、誠実で記憶喪失の院長、ですかね」 「は? 何そのメンツ」 そう言ったところで、向かいの男の胸ポケットからコール音が響く。億劫そうに通話ボタンを押し、返事をしながら飲みかけのマグを押し付けて足早に去っていった。呼び出しらしい。 「やっぱ最初から最後まで聞かせてもらうからな」 不穏な捨て台詞は、飲みかけのコーヒーとともに流してしまうに限る。テレビはチャンネルを変えたのか、音楽番組となっていた。流れてくる歌詞に口端を上げる。 何をしようとも、いつの日か終わりは来る。デタラメなシナリオの上を、変えたい未来のために書き換えようとあがいた様を。まるで映画のようなストーリーを歩んだ彼の道のりは間違いだらけだったかもしれない。それでも、行為は決して褒められるものではない。最期のカーテンコールはないけれど、その想いに拍手を贈るのもやぶさかではない。 彼は、彼自身のストーリーで、ただひとりの主役なのだから。 表示された時刻はそろそろ休憩の終わりを示している。自分のものと、押し付けられたマグカップを手に、鼻歌まじりに立ち上がった。