気が付けば、雑踏の中にいた。行き交う人々が、道の真ん中でぼう、と立つ俺を迷惑そうに避けていく。自分がこの場所に立つ前に、何かあったのか。ゆっくりと振り返る。相変わらず、雑踏が続くだけだ。  人ごみをかきわけて道端へ行き、建物に背を預け、自分が立っていた場所を改めて観察した。――何もなかった。  所々盛り上がっているレンガの敷かれた歩道。等間隔に並ぶ街路樹。立ち並ぶ高層ビル。行き交う自動車。ざわめく話声。唸るエンジン音。流れる音楽。そのどれもが、熱で陽炎のように揺らめいている。  信号機に掛かっている地名。覚えがない。電柱に取り付けられている地名。覚えがない。ひしめく看板。覚えがない。眩暈がする。ここはどこだ。  冷静にならねばならない。この暑さでやられている場合ではない。日陰になっている路地裏に滑り込み、ひとり息をつく。  槻岡颯矢。シノビ。鞍馬神流。十七歳。男。家は……家? 親は? 家族は? 同門は? 任務は? わからない。  瞬きひとつ。同業以外には見えぬ速度で飛び上がる。兎にも角にも、己の生きる縁を探さねば。

結論から言えば、何もなかった。世闇に紛れる同業を捕まえ、不審がられながらも術を見せて納得させ、仕事を融通してもらった。野宿は苦にならない。  暫くそうしていれば、上役から呼び出された。上等な一室。文机を前に腰かけるその顔に覚えはない。 「槻岡颯矢、と言ったな」 「はい」 「何が目的か」 「目的など。シノビガミの復活を阻止すること。鞍馬神流の一員として、職務を全うするばかりです」  彫りの深い顔立ちに、年齢を重ねた威厳のある顔つきをしている老齢の上役は、ぎょろりと探るようにこちらを見る。疚しいことはしていない。臆することなく胸を張れば、その口端が吊り上がる。 「では、主は何者か」 「俺は……俺も、その答えを探しているのです」 「ほう?」  興味深そうに続きを促した翁に、これまでの経緯を語る。気が付けば雑踏の中にいたこと。当時わかっていたのは自分の名と年齢。それから、シノビであり、鞍馬神流に属していること。それ以外の情報は、穴が開いたようにすっぱりとなくなっていたこと。 「後は、あなた様がご存知の通りでございます」  大して長くもない話の後、ひとつ頭を下げる。短い期間ではあったが、そこそこの任務を完遂している。有用と認められれば良いのだが。あるいは。 「話は分かった。しかし、主をここに置いておくわけにはいかぬ」 「……はい」 「鞍馬神流に、主の名は存在せぬ」  頭の片隅で、その可能性は考えていた。シノビの世界は、そう広くない。知っている者がいれば、誰かしらから声がかかるだろう。任務中の可能性を考慮して、声をかけなかった可能性もあるものの、これでその可能性は潰えた。 「……然様で」 「主には鞍馬神流に関する一切を忘れてもらわねばならぬ。口を封じるのが一番ではあるが……はて」  翁の視線が、この部屋に入ってから初めて外された。上等な生地の着物が軽やかな音を立てる。 「いくら縛れることを厭うとは言え、腕の立つ『ハグレモノ』を遊ばせておくほど暇ではない。任は全うしてもらわねば」 「……っ、ありがとうございます……!」  床に額が付くほどに深く首を垂れる。胸に迫るこれは、どう言葉にすればいいのかわからない。翁が呆れたように声を上げるまで、ただひたすらに、この幸運に感謝をしていた。

翁と話してから大きな変化があった。見つからないよう、山中の池の傍に草木を繋ぎ屋根として眠ってはいたが、ハグレモノとして任務を請け負うことで相応の金を手にすることができ、山を下りて居を定めた。  年齢から学校に通うことを勧められたが、拘束時間を理由に固辞した。しかしながら、表の顔は必要だろう、とライターの仕事を斡旋された。情報は命とは言え、比良坂には敵わないのだが。こうして独自の情報網を持つことも必要なことはわかっているため、謹んで拝命する。食べていけるだけの任務も融通してもらっているのであれば、何も言うことはなかった。  自らの出自を探す日々が続く。度々最初に気が付いた場所に訪れたが、相も変わらず手掛かりはない。  そんな中、偶然通りかかった花屋の前で、普段なら興味もないそれが目に留まった。買って帰ろうと思い至ったのは、特に何か理由があったわけではない。おそらくは。  春。世間は大型連休が終わった直後で、母の日だなんてものが大々的に騒がれていた。 「すみません、この花を包んでもらえますか」 「かしこまりました。母の日用ということでよろしいですか?」 「いえ……いや、そうですね。お願いします」 「ふふ。かしこまりました。ご予算はどれくらいですか?」 「そうですね……」  目を奪われた花を包んでもらうように頼めば、母の日か、と問われた。何に向けてかはわからない。咄嗟に否定の言葉が出てきてしまったが、せっかくなのだから、と思い直す。母の日は明日に迫っていたが、母親のこと、まして両親のことを思い出せるとは当日に母親、まして両親のことを思い出すことができるなんて、まるで思ってはいないが。  予算や花束の大きさ、ベースの色にリボンの種類を聞かれ、実際にまとめ上げられていくのを眺めながら決めていく。あっという間に、真っ白な花束が出来上がった。 「メッセージカードはいかがいたしますか?」 「結構です」 「ありがとうございました」  出来上がった小さなブーケを手に、最初に気が付いた場所へ赴く。交通事故があったわけでもない道端に花束を置くのは滑稽かもしれないと、ひとり笑いながら。  目的の場所に着き、目を見開く。既に花束が供えてあった。手の中のそれと、色こそ違えど同じ花。まだ新しい。  所々盛り上がっているレンガの敷かれた歩道。等間隔に並ぶ街路樹。立ち並ぶ高層ビル。行き交う自動車。ざわめく話声。唸るエンジン音。流れる音楽。雑踏の中、誰かが笑ったような気がした。