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――波の音が聞こえる。 どこまでも黒い影で覆われているかのような空の下に、ぼう、と立っていた。打ち寄せ、引き込まれそうな波の感触に、この場が海であることを知らしめる。月明かりさえも、星明かりひとつさえないこの空間で、なぜだか自身の姿形だけがはっきりと視認できた。真っ黒な水面から生える足の先を見ることはかなわない。 顔を上げれば、周囲にも同じように、黒い水面から生えたように突っ立っている人間の存在がわかる。と、人形のように棒立ちしていた人々が沖へ沖へと歩み始めた。触れる波が、優しく沖へと誘ってくるような気がする、ゆっくりと足を水底から上げれば、柔らかな波の感触が、前へ踏み出すようにすくい上げる。身を任せるように足を前へ前へと動かしていけば、いつしか水面は胸元にまで迫っていた。 ふと、足に柔らかな何かが触れたのを感じる。触れる足ではそれが何かわからず、持ち上げることも難しい。少しばかり息を詰め、顔が黒い水につからないように水底へ右手を伸ばす。掴んだ。細長い。棒にしては弾力がある。ゴム製の棒にしては中に芯がある。これは。 ほとんど抵抗もなくそれを引き上げれば、黒い水面から白い手首が出てきた。支えるように左手を添えて持ち上げる。 ざばり、と音を立てて引き上げられたそれは、少女だった。滑らかな肌。肋骨の浮き出た胸。その肌は病的なほど白く、この暗闇から浮いて見えた。抱え上げた少女は、腕の中でぐったりと身を預けている。ぺったりと張り付いた金の髪を払ってやると、痩せこけて骨張った頬が良くわかる。
ぱん
何かの爆ぜる音。振り向けば、自分の腕の中にいる少女と同じ子を抱える人間がいる。頭がない。
ぱん
今度は反対から聞こえてきた。腕の中の少女は、なくなった顔に腕を伸ばしている。頭がない。
ぱん
音が聞こえる。腕の中の少女は薄く目を開いている。頭がない。
ぱん ぱん ぱん
あちらこちらから音が聞こえる。偶然合った視線の先。少女が顔に手を伸ばす。頭が爆ぜる。少女の髪が赤く染まる。
立て続けにする乾いた破裂音。少女に血潮がかかる音。水面に脳漿が撒き散らされる音。 何もできず、なすすべもないまま、少女を抱え、黒い海に立ち竦む。 ふと、腕の中の少女が身動ぎをした。見れば少女は薄く目を開け、何かを求めるように、あるいは拒絶するように、その白い腕を伸ばす。暗闇に浮かぶ金の髪。白い肌。その細い手が触れる寸前で、少女は呟く。 「しにたくない」 頬に触れた小さくて冷たい感触。瞬間。暗転。
ぱん
* * *
連れ立ってやってきたのは、東京スカイツリーのお膝元である押上駅だ。迷路のように広い新宿駅から地下鉄に乗り、一度乗り換えてとすれば、一時間はかからないものの、それなりに時間はかかる。 今朝は三人そろって跳ね起きた。じっとりと全身汗にまみれているのが気持ち悪い。そのまま言葉少なにシャワーを浴び、朝食を食べ、身支度を整えて忙しない新宿の雑踏に身を投げた。 そんな気分に比例するかのように、大粒の雨が降り続いている。確かに天気予報は雨を示していたが、ここまでひどいものだとは思っておらず、道中仕方なしにコンビニで傘を購入するハメになった。 「あ、おはようございます!」 「おはよう。ずいぶん早いね」 目的の店の前で、花柄の可愛らしい傘をさした花布が声をかけてきた。白石が問えば待ちきれなくて、との答え。好奇心旺盛な気があるのだろう。核心に近づいていることもあってか、わくわくとした雰囲気が感じられる。昨晩の夢でげっそりとしているこちらとはえらい違いだ。 件の建物は平屋で、前面ガラス張り。周囲の二階建て、三階建ての建物の中ではよく目立った。窓の近くには作業机が置かれ、製本に必要な様々な器具が乗っている。その先には一面の本棚と木のテーブルがあり、一見するとカフェと見間違うほどセンスのいい内装になっているのが見えた。 入口の扉上には「イスの書房」の看板が取り付けられており、ノブには「CLOSED」のプレートが下げられている。 「あれ、早いな」 ビニル傘片手にのんびりと歩いてきたのは月兎耳だ。一晩経って酔いもさめたのか、顔色は悪くない。 「へえ。きのうはオタノシミじゃなかったんすか?」 「バーカ。オレはそんなに軽い男じゃないですよー」 寄ってきた月兎耳をニヤニヤとしながら軽く小突いた樋田は、ポケットから取り出した鍵を差し込んだ。なんなく扉は開錠され、それぞれが足早に扉をくぐる。 中は紙とインクの匂いが充満し、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。入ってすぐのところにふたつ並んだスイッチを入れれば、雨雲のせいで暗い室内にぱっと明かりが灯る。もうひとつは、天井に設置されたシーリングファンのもののようだ。静かに回り始めたファンが、じっとりと湿った空気を動かすのがわかる。 ぐるりと部屋を見回せば、落ち着いた木目調の家具でまとめられている。棚の上に敷かれたレースのマット。その上に置かれた鏡やディフューザー。ほかにも、部屋の中央に配された食事をするであろうテーブルを横切る若葉色のテーブルランナーや、作業机にあるブックエンドやペン立て。細部に可愛らしさを演出する小物から、女性が切り盛りしているのだろう、とアタリをつける。 それぞれ部屋を探し始めたのを尻目に、奥のキッチンに向かう。大きな食器棚があるものの、中に収められている食器は少ない。コンロはきれいに掃除されていて、戸棚にはわずかながら調味料が並べられている。冷蔵庫にはお茶のペットボトルに納豆、卵。自炊をほとんどしないのか、作業場であるがゆえに拠点がここにはないのか、人が使用している痕跡が見受けられた。 「何かわかったかい?」 「大したことは。使用した形跡はあるので、作業場としてここで食事をとることもあるようですが」 食器の類は複数枚セットとしてそろってはいるものの、水切りかごに入っていたグラスはひとつだけ。皿も箸もひとり分しかなかった。他のものはあまり動かされた形跡がない。すぐにわかることだ。 なるほどね、と返した白石は、本棚は特にめぼしいものはなかったよ、と続ける。ちらりと見ても、古今東西のものが収めれられた本の数々に規則性は見受けられない。イギリス風景を切り取った写真集の隣に純文学が並んでいたり、かと思えばSF小説が表紙を見得るように置かれてあったりと、どういった意図があるのかはさっぱりわからなかった。 作業机の上を漁っている樋田を通り過ぎ、月兎耳が向かった奥の部屋へ続く扉を開ける。きれいに整頓されたシンプルな部屋だ。部屋の奥にはデスクトップのパソコンが置いてある作業机、その横にあるベッド。入って左側の壁には大きな資料棚が壁を覆っている。右側は何かと思えば、部屋になじむシンプルな色のワードローブだった。 扉を開けた目と鼻の先で驚いた様子でこちらを見る月兎耳の手には、やたらと分厚い冊子が見えた。様々な資料が並んでいるのであろう目の前の棚から抜き出したのだろう。隣にいる花布がぱっと顔を輝かせて声を上げた。 「あ、古布森さん、何かありました?」 「あまり。ここを使っているのはひとりだけのようですね」 「へえ。ここは男の部屋っぽかったから夫婦でやってるのかと思ったけど」 まあでも、ベッドはシングル一台しかないし、仮眠室ってことで共用なのかもな。言いつつ、月兎耳はその本を持って作業机の前の椅子に陣取った。ノートの中を読むつもりはないようで、デスクトップパソコンの電源を入れている。 花布と並んでめぼしい資料がないか見ても、特段気になるものはない。次いで入ってきた樋田とともにワードローブを開けた。 中は数着のジャケットがかけられており、引き出しにはシャツや肌着がしまいこまれていた。どれも男性ものだ。以前使用していた女性は、ここでの作業をやめたのかなんなのか、もうここを使用していないのであろう。 そんなことを考えていれば、ワードローブの隅に何か煤のようなものがついているのに気が付いた。拾い上げてみれば、ざらざらとした黒い表紙に、小さな無数の薄い鱗のようなものがびっしりと貼られている。 改めて触れ、まじまじとそれを見て、気付く。これは。丁寧に剥がされ、丁寧に染色され、丁寧に張り付けられた。この、鱗のようなものは。百は優に超えているであろうこれは。 ——これは。人間の、唇だ。 思わず本を取り落とす。膝から急に力が抜け、後ろに倒れこんだ。樋田が驚いた顔でこちらを見ているのがわかる。転んだ拍子にしたたかに身体を打ち付け、勢いを殺せずにベッドの足に頭をぶつけた。痛い。 うめいていれば、響き渡った大きな音に驚いたらしい白石が顔を出す。何があったのか察したらしく、頭をひっこめると、しばらくして氷嚢を作って寄こしてきた。患部を冷やしながら起き上がれば、白石と樋田が件の本を覗き込みながらあれこれ話をしている。 どうやらざらついていたのは、隙間なく張り付けられた唇の皮だけでなく、本そのものが焼けているせいでもあるようだった。表紙にタイトルが金で箔押しされているが、何と書かれているかはわからない。辛うじて、最後のローマ数字から、この本が十二巻であることだけはわかる。 白石が携帯電話の辞書機能で調べてみれば『グラーキの黙示録』と書かれているらしい。中はギリシア語らしき言葉で書かれているものの、日本語での注釈は少なくないため、時間をかければ判読できそうだ。ただし、燃え残った部分でどこまでわかるのかは何とも言えない。ぱらりぱらりとめくっていけば、二百ページほどの冊子には数多くの挿絵があるものの、そのほとんどが裸の女性との性描写である。 「ううん、かなり焦げてしまっているけれど……崇拝、悪徳、背徳、神を……身に降ろす、かな?」 「なんだか大層なことが書かれてるこって…… ま、どれだけ大層なお題目を付けたところで、セックスを教義にしてる宗教なんてそれこそ古今東西星の数だわな」 「ああ、人間も動物ですからね。生命を生み出すために必要な行為ですけれど、快楽への本能半分、といったところでしょうか」 「そんなとこでしょーねえ。ま、挿絵を見る限り、女を生贄として捧げるんじゃなくて、神社で舞を奉納するみたいに性交渉行為自体を捧げてたっぽいですけど」 神とやらに生命を生み出すための行為を捧げる。そうすることによって人間をひとり生き返らせる。果たして、本当にそんなことが可能なのだろうか。「脳死」という名の自我の喪失、意識としての死。どころか、自発的な呼吸すら、心臓の鼓動すらままならない。命をつなぎ留めるだけの器具に囲まれなければ、肉体すらすぐに死を迎えてしまう。 ――その神は、死をも超越することができるのか。 具体的に何をどうしようとしていたのかは、樋田が持ち出した手帳におおよそのことが記されていた。先ほど月兎耳が見つけたらしき冊子も、おそらくそれを補完することになるだろう。 その間に資料棚をもう一度漁れば、樋田が一冊のデザインノートを取り出した。女性的な丸文字が、製本アイディアの隣に詳細として書き込まれている。女性がいた、という痕跡は色濃く残っているものの、現在使用しているのは男性のようだ。書房を譲られたのか。確信を今ひとつ持つことができない。 特段気になるものがなさそうであることを確認すると、小さな部屋からダイニングスペースへと移動する。月兎耳もさっさと調べ終えたようで、パソコンをシャットダウンして部屋から出たようだ。 「月兎耳さん、どうでした?」 少しばかり遅れて出てきた月兎耳に、花布が声をかける。肩をすくめて首を振り、そろそろ出よう、と声を上げた。 「ずいぶん長居しちゃったもんね」 白石が頷き、ぐるりと部屋を見回す。漁りはしたものの、空き巣のように引っ掻き回したまま放置はしていないはずだ。多少配置が変わっているところはあるかもしれないが。 書房を出て鍵をかけ、傘を広げる。駅の方へ足を向ければ飲食店は何かしらあるし、スカイツリーまで歩けばどうにでもなる。そろそろ昼時。腹は大して減ってはいないが、情報の交換と整理、これからの行動指針を立てるに最適だろう。
スカイツリーに向かって歩いていると思ったら、途中で道を曲がり、川を渡ってしまった。昨晩のように隠れ家然とした美味い店にでも案内されるのかと思いきや、連れてこられたのは大手定食のチェーン店、太戸屋。 月兎耳が文句をたれているものの、次の機会に花布を誘って夜景でも見ればいい、とぞんざいにあしらわれていた。 「花布ちゃん、今度スカイツリーで一緒にごはん食べようね」 「はい! 私、ファミレスとかカフェじゃないところだと、ひとりって気後れしちゃうのでうれしいです。楽しみにしていますね」 「へえ。太戸屋は行くの?」 「近所にはないので、あまり行ったことはないですね……」 さすがに昼時なだけあり、混みあっているところを適当な会話をしつつ時間をつぶす。ラーメンよりうどん派だとか、立て込んでいるときはカップラーメンを待つ時間もなくカロリーバー漬けになったことがあるだとか。職が変わればそれぞれの昼食事情もなかなか違っていておもしろい。 しばらくして大人数用の空きができたようで、広いスペースへと案内される。思い思いの席へ座ったところで、設置されたセルフオーダー端末を取り上げた月兎耳が花布によこす。 「お、これウマそう」 「本当だ。こう暑いと、こういうさっぱりしたのが欲しくなるよねえ。古布森くんはどうする?」 「そうですね……チキンカツにします」 「へえ、意外」 「何か?」 「いや何でも」 端末を操作するふたりの向かいで、メニューをめくりつつ話をしていれば、何とも言えないとでもいうような視線が刺さった。もっとさっぱりとしたものをと飲むと思った、ということが言いたかったらしい。きのう味噌ラーメンを食べたときも、焼肉を食べたときも、卓を囲んでいたはずなのだが。 夏限定の梅を使ったメニューやら唐揚げ定食やら、回って来た端末にそれぞれ入力をしていく。 長くなりそうだ、と頼んだドリンクバーでコーヒーを入れたり、先ほどの書房の話をしていたりすれば、店員が次々と食事を運んできた。 「お待たせいたしました。梅おろしチキンカツでございます」 揚げ物ということで多少時間がかかるのか、最後のグループで食事が運ばれてきた。大きなチキンカツの上に山盛りの大根おろし。富士山のごとく山頂にかかっているのは梅だれだろうか。その背後にはキャベツの千切りがそびえ立っている。白米と味噌汁、香の物が付け合わせに並べられていた。 先に箸をつけ始めた周囲を見つつ、味噌汁をすする。冷房の効いた店内で、温かな味噌の味にほう、と息をつく。艶やかな白飯も、一粒一粒しっかり立っていて、白菜の漬物が進みそうだ。キャベツの山にドレッシングをかけて黙々と口に運ぶ。シャッキリとした歯応えとほのかな甘さと瑞々しさが新鮮であることを主張していた。 一番端のチキンカツをつまみ上げて齧る。サクサクとした衣の食感と、ふわふわしているのにジューシーなチキンが食べ応え抜群な一品だ。たっぷりと乗せられた大根おろしに比べて量の少ないように見える梅だれは、少量で抜群の存在感を発揮して、肉の油をさっぱりと消し去ってくれる。残った薬味を隣に置いてある昆布だしに混ぜ、カツをつければ、難なく胃に収まっていった。 外は雨模様で真夏にしては気温が低いものの、じっとりとまとわりつくような湿度は毎年のことながらいただけない。樋田が話すお蔵入りとなったオカルト取材エピソード(最終的にオカルトじゃなかった案件集)を聞いていれば、食事は程なくして全て胃に収まった。 これからどうする、と話をしていれば、月兎耳が思い出したかのように分厚いノートを取り出した。どうやら大学ノートの背表紙をガムテープで無理矢理つなぎ合わせたもののようだ。割いて手分けして読めないか、という話はあったものの、あまり不用意に分解しない方がいいだろう、ということでそのまま月兎耳がページをめくることとなった。 「イスの書房で見つけたやつですよね? 確かに、今はもうこれしか手がかりがありませんもんね」 「でも、紡くんの手帳以上のことが書いてあるとは思えないんすよねえ」 「僕も概要を把握するくらいでいいと思うよ。それだけの量の手記だなんて、読み込むとなると大変だろうし」 「例の手帳の内容を鑑みると、研究の元になったものでしょう。期待はするだけ無駄な気がします」 「ほい。じゃあ、読み終わるまでちょっと待ってて」 言いつつ、月兎耳はノートの解読に集中し始めた。のぞき込んでみるものの、なかなか癖が強い字のせいで、反対側からではかなり読みにくい。白石の病院エピソードを聞きつつ、どこでも似たような話はあるものだなあ、と相槌を打っていれば、店員の元気な声が、太戸屋ティラミス黒蜜きなこと抹茶アイスです、と割り込んできた。いつの間にか頼んでいたらしい。ティラミスは花布の前に、抹茶は白石の前に残されていった。 コーヒーのおかわりをしに席を立つ。特段美味いわけではないが、ドリンクサーバーのコーヒーはこんなものだろう。ついでに花布の分のカップも攫って、ドリンクコーナーへ向かう。ボタンを押してコーヒーが注がれるのを見ていれば、隣で姉弟らしきふたりが、きゃいきゃいとジュースを選んでいた。姉が弟の分のコップに氷を入れてやり、注ぎ口の下にセットしてやる。オレンジジュースのボタンをどうしても押したいらしい弟が必死に背伸びをしても届かずに涙目になっているのを見かねて、姉が抱き上げようとするものの、姉の身長も低くどうにも危なっかしい。 しばらく眺めていれば、限界が来たのかよろけて二人とも転びそうになったところを慌てて支えた。 「大丈夫ですか」 「うん。お兄さんありがとう」 幸い、どこにぶつかるでもなく、ドリンクサーバーも設置されたカップも無事だ。弟の方は名残惜しそうにボタンを見上げている。小さくため息をついて、その小さな体を持ち上げた。 「わわっ」 「ほら、早く押してください」 抱え上げられたまま、素直に目の前のボタンを押した子どもは、振り返ってにっこり笑い、足元で目を丸くしていた姉も笑顔で見上げて元気よく礼を言う。それに頷いてから慌てて一歩後ろに下がった。 「どうしたの?」 「どうしたもこうしたもありません。こぼれますよ」 「あ、ほんとだ!」 「こぼしたらもったいないよ」 「うん。お兄さんありがと!」 同時に隣のサーバーからメロンソーダを注いでいた姉は、自分の分のコップを弟に渡し、今にもこぼれそうなオレンジジュースのコップを手に取った。 「やだ! ぼくのやつ、自分で持ってく!」 「こぼしちゃうでしょ。代わりにお姉ちゃんの持ってって」 「えええ」 ぶつぶつ文句を言っていたものの、姉の方がやはり数枚上手らしい。うまいこと言いくるめられ、真剣にコーラを見つめて慎重に足を踏み出していく姿を微笑ましく眺めた。姉は弟が見ていない隙にコップに口をつけて量を減らし、ストローを手に持って改めてこちらに礼を言って弟を見守りながら席へ戻って行った。姉は小学校低学年くらいだろうか。随分としっかりしている。 少しばかり冷めてしまったコーヒーを手に取って席へ戻る。花布にコーヒーを渡せば、随分遅かったですね、と問いかけられた。そんなに混んでいましたか、とも。今しがたの姉弟の話をしてやれば、ほっこりとした空気が流れる。そういえばね、と白石が以前診察をした子どもの話をしていれば、パラパラとページをめくっていた月兎耳の手がノートを閉じた。どうやら読み終えたらしい。 「月兎耳さん、どうでした?」 「残念ながら、真新しい情報じゃなかったな。魔術と脳科学を合わせて、対象の精神を他者の脳に移すっつー話」 「予想通りでしたね」 さて、これで手に入れたカードはあらかた精査が終わったような形になる。足りないピースは何か。単純に考えるのであれば、火事のあった架倉邸に地下がある、という記述があったが、きのうの探索では夜になってしまったこともあり、地下を発見するには至らなかった。となれば、これから行く先はひとつきりだ。強いて言うのであれば、雨の中の探索は面倒故にあまり気が進まない、という点か。 そんな話をしていれば、白石の携帯電話が着信を告げる。着信相手を見て驚いたように目を丸くし、そのまま電話に出た。気を使って外に出そうなものだが、それも会話を聞いてすぐに納得する。 「はい、白石です」 『あの、栞ちゃん知りませんか!?』 「小口さん、少し落ち着いてください。栞ちゃんは病院ではないのですか?」 言いながら、白石はちらりとこちらへ目配せをする。このテーブルだけ、他から切り取られたかのような沈黙が下りた。微かに漏れ聞こえる電話の向こうの悲壮な声と、至極落ち着いた白石の声だけがひどく響く。 『いないんです! ひとりでなんて動けるはずがないのに!』 「とにかく落ち着いてください、小口さん。僕たちも栞ちゃんを探しますから」 『どうしましょう! 栞ちゃん、人工呼吸器がないと五分ももたないんです……!』 「では、小口さんはひとまず院内を探して、見当たらなければ警察に連絡してください。僕たちもできる限り協力しますから。ね?」 『は、はい! 栞ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします……!』 通話を終えた白石は、携帯電話をポケットにしまい、静かに立ち上がった。 「架倉邸に行こう」