「せーんせ」 「あ? 今度はなんだ?」 今日も今日とて、研究室に勝手に入りびたる男に、堀田はうんざりと声をかけた。後ろ手に何を持っているのか、かさり、と何かがこすれる音がする。 「花瓶、ある?」 「は?」 突拍子もない言葉に、堀田は方眉を吊り上げた。花瓶なんぞあるわけがない。卒業生が持ってくるものには事前に釘を刺して食べ物もしくは軍手やタオルなどの実用品しか受け付けないことにしている。花も大して持たない上に年に一度使うかどうかの花瓶など邪魔なだけだ。何かの折にもらってしまったときには、仕方なく標本用の瓶を開けていた。色気がないと散々言われたが、そんなものを買う暇もなければセンスもないのだからどうしようもない。 あるわけねえだろ、と言い捨て、手元のコピー用紙に目を落とす。学生たちと共に先日行ったフィールドワークのレポートだ。参加人数は二十名弱だったが、じっくりと考察の重ねられたものもあれば、インターネットの継ぎ合わせのものもある。一目でわかる継ぎはぎのものは最低点をつけ、考察を丁寧に読み解いた。 どうしてなかなか目の付け所がおもしろい。考察の下地はあの論文か、とあたりをつける。他に三名程似たような内容のものを見つけ、そういえばグループワークにしたな、と思い至った。結論は同じようで若干異なり、しかもそれぞれアプローチが異なっていることに思わず声を上げた。 「センセ、どうしたの?」 「あ? お前、まだいたのか」 すっかりと存在を忘れ、レポートに夢中になっていた堀田は、背にかかる重みと思いのほか近くで響く紫吹の声に顔を上げた。 「それひどくない?」 「重い」 更にかけられる体重に、手にしたレポートが皴にならないように慌てて机の上に置いた。文句を言いつつ顔を上げれば、目の前に掠める青い色となれない香りに堀田は眉をしかめる。 「花?」 「カーネーションだよ」 紫色のそれにへえ、とひと言。どうでもよさそうな返答に気を悪くした様子もなく、紫吹は手に持った一輪のカーネーションを堀田の鼻先に押し付けてからその背を離れた。 「急にどうしたんだ?」 「んー、なんとなく?」 さらりと告げた紫吹は、なにやら袋を持参していたらしい。普段手ぶらで現れるのに珍しい、と眺めていれば、それを手にそのまま研究室の扉から出て行った。何をしに来たのやら。 机の上に放り投げたレポートを再び手に取る。多少皴になってはいるものの、直せない範囲ではない。そこそこ読み応えのあるそれをもう一度手にした。こいつらの研究を見てみたい気もするが、これだけできればどこの研究室へ行っても文句は言われないだろう。興味がある分野を突き進むのが、この大学という専門機関なのだから。 一度目を通しているため、すぐに読み終えたそれらを、他のレポートと共にファイリングしていく。今回は全体的にレベルが高い。最後まで何人残っているだろうか、なんて考えながら空になったカップにコーヒーを淹れようと腰を上げた。 そこへ、軽い音と共に扉が開く。大層な美形が花瓶に花を持って再び現れた。そのまま、雑然としたテーブルの上を適当によけて真ん中に花瓶を置く。口のすぼまった白い陶器製のそれは、色鮮やかで華やかなカーネーションをよく引き立てていた。 「……お前、黙ってそれ持ってりゃ絵になるのにな」 「なあに、センセ、惚れ直しちゃった?」 「寝言は寝て言え」 それはそうと、わざわざ花瓶も持参したのか。こいつは。 「だってほら、この間、ペットボトルに活けてたでしょ」 そんなこともあっただろうか。あっただろうが、そもそも花束をもらった記憶がない。 「せっかくだし。これもあげる」 俺だと思って大事にしてね、なんてまた馬鹿なことを言う紫吹に嘆息して、机の中央で揺れる紫の花弁を眺め、ポットからマグカップに湯を注ぐ。同じようにもう一つ淹れ、それをテーブルへ持っていく。ソファに腰かけたまま手を伸ばす紫吹に渡そうとすれば、そのまま手首をつかまれ、引き寄せられた。 「っぶねえな」 「ごめんごめん」 慌ててたたらを踏み、どうにかこぼさずに済んだ。軽い口調で紫吹が謝るが、こぼせば頭から熱々のコーヒーを被るのはこいつだ。 「お前な……」 「大丈夫だったんだからいいでしょ、センセ。ありがと」 心底呆れかえった様子を気に留めることなく、紫吹は堀田からマグカップを取り上げてテーブルに置き、堀田の手を引いて隣に座らせた。 「お前な……」 「いいでしょ、センセ。ほら」 隣に座らせて満足そうに笑う紫吹は、机の上のマグカップを堀田に手渡す。動くのも面倒になったのか、拒否することなく受け取った堀田は、はいはい、とそれを受け取り、口をつけた。 きちんと隣に収まったのを確認して、紫吹はミルクと砂糖を入れてからマグカップに口をつける……前に、その熱に慌てて口を放した。 「どうした?」 「あっつい!」 ふうふう、と息を吹きかける紫吹に、堀田はげらげらと笑う。 「そういやお前、猫舌だったか。なんだ、代わりに冷ましてやろうか?」 「え、ほんと?」 「そこで頷くなよ……」 満面の笑みでマグカップを寄こしてくる紫吹に脱力して、適当に手で煽ってやればなぜか怒られてしまった。 「ちゃんとふーふーして」 そんなやりとりをしつつ、腹が減れば揃って街に繰り出すのだろう。パエリアが食べたいと宣う頭を小突き、仕方ない、と腰を上げるのだ。