目の前の白と黒の鍵盤を押して音を出す。思い通りの音が出せれば楽しいし、間違えてしまえば悲しい。一生懸命弾いているはずなのに、どうしても音の大きさは揃わないし、リズムも転んでしまって、上手に弾けないのが悔しい。それでも、自分がつくり出した音が、音楽になって部屋いっぱいに響くのが好きだった。視線を上げれば、目の前には今練習している曲の楽譜が置いてある。けれど、そんなものを見なくても、メロディーだって指運びだってもう覚えている。  嫌になることももちろんあるけれど、それでも、きのうできなかったことができるようになるのが嬉しくて、さっきできなかったことができるようになるのが楽しくて、一生懸命弾いた曲を聞いてくれたみんながすごいね、って褒めてくれるのはちょっと照れるけれど、それよりもっとずうっと嬉しくて。毎日毎日、もう寝る時間だよ、と言われるまで、白と黒に指を躍らせていた。  右手と左手をかわりばんこに見ながら、ひとつひとつの音を丁寧に紡いでいく。あまり長くない曲でも、一曲丸ごと弾くのは大仕事だった。どうにかこうにか最後まで弾き終えると、小さくため息をつく。右手に気を取られれば左手が疎かになり、左手に気を取られれば右手が転んでしまうのだ。  鍵盤から離した手でぎゅう、とお気に入りの小花のたくさん散ったスカートを握る。その下から伸びる二本の足の先に、小さな靴。パパとママと、お兄ちゃんよりも小さい身体。もっと大きくなったら、ピアノももっと上手に弾けるようになるのかな。お仕事が忙しくってあんまり会えないパパのお手伝いも、おうちのことをいっぱいしてくれるママのお手伝いも、学校のお勉強もピアノも優しく教えてくれるお兄ちゃんのお手伝いも、いっぱいいっぱい、できるようになるのかな。 「■■■、もう練習はしないの?」  優しい声がする。お兄ちゃんだ。金色の髪の毛が、大きな窓から差し込むお日様に照らされてキラキラしていてとってもきれい。やわらかくってふわふわしているのを知っているのだ。少し横にずれれば、空いたところにお兄ちゃんが座ってくれる。その膝の上に登って、ぎゅう、とくっつけば、お兄ちゃんもぎゅう、と抱きしめてくれた。 「あのね——」

* * *

ふ、と気付けば視界にアスファルトが迫っていた。肩に何かが触れるのを感じて振り仰げば、月兎耳が当惑した様子でこちらを見下ろしている。ふらつく身体を起こせば、同様に頭を抱えている白石と樋田の姿も見える。ぐっしょりと汗をかいていたようで、シャツが背に張り付くのが煩わしい。  地面を踏みしめて立ち上がれば、そこは病院の前だった。目的地の架倉総合病院だ。通りがかる患者や付き添いであろう人々、警備員が困惑した様子でこちらを伺っているのがわかる。それににこり、と笑みを浮かべて軽く会釈をすれば、ちらりちらりと視線は感じるものの、視線が剥がれていくのを感じる。 「もう大丈夫なんですか?」 「ええ。……すみません、心配をおかけしました」 「ホントですよ。急に大の大人が倒れるでもなく蹲ってびっくりしたんですからね。それも三人も!」  花布がかけてきた声に返せば、ほう、と安堵の息をつくのが聞こえた。後のふたりも同様に返事をし、揃って首を傾げた。

六人での移動にタクシーを二台捕まえ、タクシーに揺られること一時間弱。事情を知らない運転手の前で事件のことを話すのも憚られ、振られる会話を適当に流しつつ、変わった知り合いの話で再び盛り上がった。伊達に妙な事件に巻き込まれ続けていない。そういうときは大抵、ひとりは強烈な人間がいるものだ。嫌な経験則である。  大きな病院なだけあり、ロータリーはよく整備されていた。依頼主に請求する、という白石が代金を払うのに甘え、先にタクシーから下車する。窮屈な車内から出た、という解放感と、肌を撫でるまとわりつくような暑さの不快感のどちらがマシか、なんて考えつつ、さっさと中に入ってしまおうと入口へ足を向けた。  そのとき、ふと病院から出てくる金髪の男に視線が吸い寄せられた。顔立ちが整っている以外に特筆すべき点はなく、なぜこの男を目に留めたのかはわからない。視線を引きはがし、そのまますれ違う。  瞬間。  頭痛。苦痛。苦艱。頭が割れるような、脳がはち切れるような、血管という血管に無理やり液体を注がれるような。鼓動とともに脈打つ血管が、神経を焼き付けていく気さえする。息が吸えない。息はどうやってするものだった? 呼吸。できない。わからない。どうにか痛みを逃そうと頭を抱える。蹲る。丸くなる。身を守るような姿勢になってようやく、はくはく、と口が開いているのを理解した。  そうして視界が塗りつぶされ、気づけば視界が一変していた。典雅な洋館。小さな手。辿々しく紡がれるメロディー。かけられた声。金色の髪の少年。  ピアノは何百回と再生されて音の飛んだレコードのようで、視界は質の悪いカメラを使って撮影されたフィルム映像のようだった。どこか退廃的でノスタルジックな情景は、誰かの記憶なのかもしれない、と当たりをつける。視線が低い。名前を呼ばれた気がしたが、ひどくノイズがかかったように聞き取ることができない。金色の髪の少年はどことなく、先ほど病院ですれ違った男に似ている気がする。  体の主が何か言おうと口を開いた途端、視界の端からがドロドロと溶け出していく。夏場のソフトクリームのように、ハンバーグに乗せられたチーズのように、クレープにかけるチョコレートのように。  そうして気づけばこの状況で、かすかに残るのは頭痛の名残だけ。金髪の男は初めから夢の中の存在であったかのように、影も形もなかった。  話を聞けば、ふたりも同様のものを視たらしい。 「さて、タイムリミットはいつなんでしょうね」  国会図書館で『亞書』を読んでからの異常はこれで二度目であるが、今回の頭痛といい、脳に何らかの支障をきたしていてもおかしくはない。最終的に頭が破裂するとして、そこまでの猶予はいかほどか。 「とりあえず、病院の中に入ろうか。ここにいて熱中症で倒れちゃったら元も子もないからね」  白石の言葉に頷き、大きな病院のガラス戸を潜った。    中は様々な事情があるのであろう数多くの患者が待合室の至る所で順番を待っていて、カウンターの中で職員が忙しなく受付や会計の手続きを行なっている。誰に尋ねればいいのか、とひとまず受付へ足を踏み出せば、かっちりとしたスーツに身を包んだ女性が、慌てた様子でこちらへやって来た。 「院長! 今までどこに行ってらしたんですか!?」  その剣幕にも、よくわかっていない様子で気の抜けた返事をする帯紙に、白石がどうどう、と割って入る。 「まあまあ、ちょっと落ち着きましょう? どうもこの人、記憶喪失みたいで」 「なっ……そう、ですか。詳しいお話を伺っても?」 「ええ。そういう依頼ですから」  信じられないということがありありとわかる顔で一同を見た女性は、衝撃をどうにか収めると、一礼して踵を返す。記憶喪失の帯紙はひとまず検査を行う、ということで、別のスタッフに連れられ、そこで別れた。  彼女について広い院内を歩き、エレベーターに乗り込む。最上階である八階で降りるとすぐ目の前に扉があり、プレートに「院長室」と刻まれていた。彼女は首から下げていた職員証を、右側にあるタッチ式の認証機にかざして扉を開ける。その先にはさらに五メートルほどの廊下があり、下には高そうな絨毯が敷かれていた。さらに先にある両開きの扉へ三度ほどノックをした後に扉を開け中に入るよう促す。  院長室の中はとても広い。正面に立派な木製のデスクにデスクトプ型のパソコン。その向こう側には武蔵野市を一望できる全面窓。中央に少し低い大きなガラスのテーブル。それを囲むように茶色い革張りのソファが配してある。右側にはびっしりと本の詰まった本棚、左側には賞状やトロフィー、盾や写真などが飾られていた。 「今お茶を用意しますので、しばらくお待ちください」  そう言って、彼女は静かに退室した。茶の用意をする間に、少しばかり心の準備もするのだろう。この部屋に入る権限があることを鑑みれば、格好からも秘書のような役回りなのかもしれない。 「さて、記憶喪失中の帯紙くんはここの院長であることが確定したわけだけど……」 「ま、クルックの情報が全部正しいとするなら、前院長の架倉頁が怪しい儀式をしていたことになりますね」 「それと帯紙さんが『亞書』を調べていたことの繋がりが見えないっすねえ」 「ただまあ、普通に考えればこの場所に何かあるのが定石でしょう」 「うーん、スパイごっこみたいで、なんだかワクワクしますね!」  声を掛け合い、広い部屋をそれぞれめぼしい物がないか見て回る。デスクの上にある本を樋田が眺めている。その後ろから、デスクトップのパソコンの電源を入れようと手を伸ばしたところで、目測を誤って踏んでしまったキャスター付きのデスクチェアの足が滑り、盛大にひっくり返ってしまった。次いでバタン、と倒れた椅子が降ってくる。 「えええ、ちょっと古布森さん、大丈夫っすか!?」  真横に立っていた樋田が慌てて椅子を退かしてくれた。あまりにも大きな音がしたため、わらわらと男共が覗き込んでくる。ため息をついて起き上がろうと手を付けば、妙な捻り方をしたのだろう、手首に痛みが走った。 「アンタさあ……ほら、ちょっと見せてみろ」 「……すみません。ありがとうございます」  ポケットから簡易救急キットを取り出した月兎耳が、手首に包帯でテーピングを施してくれた。流石に自分で自分の手首を処置するのは骨が折れるため、ありがたい。女性ではないが、と顔を見れば、不本意です、と太字で書かれているのがわかるのに、その手つきはひどく丁寧だ。これが「ツンデレ」とかいうやつか。野郎のツンデレに需要などナノほどもないが。 「あ、パソコン、今やっと立ち上がったっすよ」  出る幕がない、と方々を見ていた樋田が声をかけてきた。どうやらパスワードがかかっているらしく、中を見ることはできそうにない。 「お待たせいた……どうしたんですか?」  ノックが響いてからさほど経たずに開かれた扉から現れた女性は、ソファに座るでもなく部屋の隅に固まっている男たちに首を傾げた。

「改めまして、私は医局秘書をしております、小口のどかと申します」  ソファに落ち着き、コーヒーを配ったところで、女性が名刺を渡してきた。名乗り返し、コーヒーに口をつける。まずまずの味だ。小口の腕がいいからか、院長室だからか、院長の客だからか、自院の休憩室のものより美味い。 「ただ今、帯紙は精密検査を受けています。結果が出るまでもう少し時間がかかるでしょう。それまで、今まで何があったのか、教えていただけませんか」  それに頷き、白石が経緯を説明し始めた。朝、自身が共同経営する探偵事務所に帯紙が訪ねてきたこと。記憶はなく、自分が誰だか調べて欲しい、と依頼されたこと。所持品は剥き出しの現金二十万円と国会図書館の利用者カード、探偵事務所のリストだけであったこと。ひとまず利用者カードの情報を頼りに図書館に向かえば、住所が架倉総合病院のものであったこと。そこで事件があり、その場で知り合った人たちが現在同行していること。 「なるほど、そうでしたか……帯紙を無事にここまで連れてきてくださり、ありがとうございます」 「帯紙さんは、こちらの院長なんですよね」 「ええ。……そうですね、こちらの話も少しいたしましょう」  秘書である小口の口から語られたのは、この架倉総合病院の前院長の死にまつわるものだった。  戦後から一族経営を行なっていた架倉総合病院の前院長一家は、頁と妻の知里、息子の紡と娘の栞の四人家族だったという。院長の頁が亡くなった五年前の当時、息子である紡は十四歳。流石に幼すぎたため、急遽当時副院長であった帯紙が繰り上がる形で院長となる。  しかし、どうもこの前院長の死は、娘がその前年に交通事故で脳死状態になったのがきっかけらしい。日本トップクラスの脳神経外科を有するこの架倉総合病院で最高峰の治療を行ったものの回復の見込みはなし。自身も優秀な脳外科医であった頁は、娘が一生目覚めることはないと理解してしまった。  妻の希望で娘の仮の葬儀のようなものを行った頃から前院長の様子がおかしくなっていったという。どうやら、娘を生き返らせるために怪しい儀式を執り行っていたとか。結果自宅を燃やしてしまい、妻も巻き込まれて死亡。一人残った息子、紡は、頁と親友であった帯紙が引き取ったものの、家族を全て失ったことで心を閉ざしてしまう。  娘の栞は、今もこの病院の七階にある病室で人工呼吸器に繋がれているものの、実に五年もの間機器に繋がれていた影響で体が耐えきれず、生命維持に限界がきている。それを帯紙が兄である紡に伝えて以来、今度は紡の様子がおかしくなってしまったそうだ。帯紙は「あの頃の頁と同じ雰囲気がする」とこぼしたらしい。これが三ヶ月ほど前のことだとか。  そして、帯紙は紡ともう一度しっかり話をすると出かけたきり、音信不通。今に至るという。 「失礼を承知で申し上げます。帯紙に何があったのか、調べていただけませんでしょうか」  そう言って深々と下げた小口をまじまじと見つめてしまったのは不可抗力だろう。確かにここに連れてきたことで帯紙自身の依頼は一応達成したと言えるのだろうが、この展開は予想外だ。しかし、人のいい白石はにっこりと笑みを浮かべて頷く。 「心配されてらっしゃったことはもっともだと思います。どこまでお力になれるかはわかりませんが、僕にできることなら」 「ありがとうございます。必要なことがありましたら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください。よろしくお願いします」  あっという間に契約が成立するのに驚いた。帯紙を連れてきた、という実績も大きいのだろうが、この話しやすく、いざとなれば頼りになる雰囲気がウケるのかもしれない。 「そういえば、国会図書館の利用者カード、帯紙さんの自宅がこの病院になっていたのだけれど、どこに住んでいるんですか?」 「ああ、帯紙は多忙で……面倒がって家と呼べるものを持っていなかったのです。ほとんどをこの院長室で過ごしていて、稀に都内のホテルを借りて睡眠を取っていたくらいでしたので……ある意味正しいかと」  院長は忙しいとはいえ、流石にうちの院長だってそこまでではない、と思う。相当多忙なのか面倒なのか。家を持たない、というのはある種身軽でもあるのだろうが、ここに住んでいるというのは……まあ、研究室で寝泊りしているようなものか。それならば身に覚えがある。思い出したくもない研修医時代。 「紡くんは今どこに住んでいるんですか?」 「確か一人暮らしをしている、と聞いていますが……ああ、こちらですね」  火事があったのが五年前ということは、件の息子はもう十九歳。大学に進学しているのか職についているのかはわからないが、一人暮らしをしているのは妥当だろう。何せ、身元引受人が家無し……未成年の子供を引き取っておいて家無し……? 常人には理解できない思考だが、そういうこともあるのだろう。世の中知らないことがたくさんあるものだ。

ピピピピピ    机の上の電話が軽やかな音を立てる。側にいた小口が立ち上がって受話器を取り上げた。いくつか相槌を打つと、静かに受話器を置いてこちらに向き直る。 「帯紙の結果が出ました。検査を担当した医師より説明があるそうなので、ご一緒していただけますか」 「じゃあ、僕は聞きに行こうかな。新しい依頼のこともあるしね」 「僕も行きますよ。これでも医者ですから、何かわかることがあるかもしれませんし」 「じゃあ、オレは留守番しとく。難しい話はわかんねえし」 「あ、俺も。素人にもわかるような説明、期待してるんで」 「うーん、私は大丈夫ならお邪魔したいです!」  あまりこの部屋の捜索に時間をかけることができなかったからか、月兎耳と樋田はこの院長室に残ると言い出した。小口は、と言うとその提案にあっさりと許可を出す。確かに、診察室もさほど広くはないだろうし、そこに五人も六人も入ったところで落ち着いて話を聞くこともできないだろう。先ほどの話を聞く限り、この部屋に前院長の残したものがあるとは考えにくいが、何かしらの手がかりはあるかもしれない。  では、と立ち上がって院長室を出る小口に続き、再びエレベーターに乗り込んだ。

案内された部屋の扉を開けられ、中に入るよう促される。生理機能検査室。読んで字の如く、身体の基礎機能を調べる部屋なのだろう。帯紙がベッドで横になっており、様々な器具から伸びるコードに繋がれている。その先のモニターを見れば、心電図や脳波がモニターに絶えず記録されているのが見て取れた。 「こちらの方々は?」 「私が院長の動向について調査を依頼している方々です。説明をお願いします」 「そうでしたか。私は見返と申します。では、院長の状態についてお話しします」  カルテを作っていたのだろうか、パソコンに向かって何事か打ち込んでいた白衣を着た男性医師がこちらに気付く。入ってきたのが小口だけでないことに驚いた様子で問いかけるも、小口の話に難しい顔で頷いた。  小口が用意してくれた椅子に腰掛け、示された画面を見やる。 「これは、院長の脳をMRIで撮影したものです。横から見た脳の断面図ではこれといった異常は見られませんでしたが……」  そう言って言葉を切ると、縦の断面図を徐々に内部に向かって進めていく。ちょうど頭部の最大径のあたりで、ピタリと画像が止められた。 「こちらに写っているのは前頭葉、側頭葉、後頭葉です。見づらいですが、ここにいくつもの細い傷のようなものが走っています。私も長く脳神経外科をしておりますが、このような例は見たことがありません」  あまりにも異様。これは、合成か何かではなく、現実に今、帯紙の脳内に存在するものなのか。 「通常、脳につく傷であれば、脳挫傷や外傷性脳損傷、つまり外部からなんらかの衝撃により脳の内表面を中心に傷つくことはありますが、これは完全に脳の内側についている」  これは傷というべきものか。傷と評して良いのか。これは、どう考えてもオカルティックな話だ。否定しようにも、ここまで材料が揃ってしまえば、経験上、それを否定することは難しい。 「原因は不明ですが、皆さんの話と院長への問診から、記憶と判断力、行動意思決定に障害が出ていることがわかります。これはこの傷が原因ではないかと推測されます」  確かに、脳全体に刻み付けられているこの図形——七芒星だろうか——が本当に傷であるのならば、前頭葉は注意力や意欲の低下、側頭葉は記憶の保持、呼び出しに支障が出る。帯紙の症状はまさにそれで、図らずもこの奇妙な図形が間違いなく脳に刻まれていることの証明となってしまった。  頭頂葉や後頭葉の傷はさほど影響が出ていないようで、それは不幸中の幸いと言えるだろう。否。もしかすると、感覚を司る頭頂葉はともかく、視界を司る後頭葉は影響があるのかもしれない。思えば自発的に行動することはないために見落としてしまっていたのかもしれないが、帯紙はほとんど見えていなかったのかもしれない。少なくとも、人物の識別はできていたようではあるが。 「この症状が一時的なものか、それとも長期的なものかはなんとも言えません。ひとまず入院をし、さらに詳細な検査をするべきでしょう」  帯紙はこのまま入院するらしい。さもあらん。あらかた話を聞き終えたところで、院長室へ戻ることにする。向こうも何か見つけたかもしれない。  共に話を聞いていた小口は、努めて淡々とした態度を崩さないようにしているように見える。帯紙がこの病院へ戻ってきたときの取り乱し様を見ていれば容易に推測ができることではあるが。ようやく戻ってきた院長が、よもやこんなことになっているとはよもや思うまい。依頼の件もそうだが、他にも様々な差配があるだろうに。

「小口さん、花布ちゃん、おかえり」  小口が院長室をノックすれば、中から扉が開けられた。月兎耳がニコニコと笑みを浮かべてエスコートしようとするのを断り、淹れ直してくる、とテーブルの上にそのままになっていたコーヒーカップを下げていった。 「あらま。フられましたねぇ」 「オレには花布ちゃんがいるからいいんだよ」 「私、ですか?」 「うん。花布ちゃんはかわいいねって話」 「あ、ありがとうございます……?」  一通り茶番が終わったのを見計らい、それで、と切り出す。小口が戻ってくるまでの間は、こちらで分かったことを伝えた方が効率的だろう。同じ話を二度も三度も聞く時間が無駄だ。  白石が持っていた手帳に図形を描きつつ、例の脳に刻まれた傷のことを話せば、揃って訝しげな顔をされた。僕だって実物を見ていなければ冗談だと思うし、こういった事象に巻き込まれたことがなければ、見せられたMRI画像だってそうと知らなければタチの悪い合成だと思うだろう。  その図を眺めながらそういえば、と白石が口を開く。 「この傷、七芒星でしょ? 七芒星って、オカルト的にはいろんな意味があるんだよね」 「白石さんもオカルトに造詣が深いんですか?」 「まあ、昔ちょっとね。とは言っても、樋田くんの方が詳しいと思うけど」 「またまたご謙遜を。で、どんなでした?」  あいにく図形の意味なんてものはわからなかったので、解説してもらえるのはありがたい。何かあれば、オカルト話を糧に生きている樋田が訂正や補足を入れるだろう。ちょうど戻ってきた小口はオカルト話に興味はあまりなさそうだが、他ならぬ院長の帯紙に無関係ではないだろうということで話を聞く姿勢だ。花布はやけに楽しそうにニコニコとしている。 「ええとね、七芒星って、見てわかると思うけど、描くのがとっても難しいんだよ。数学的にも完全な形で描けないの。だから『不可能を成す強い力』を表しているんだ。他には『愉悦』『顕現』『合一』とかね。それから、七芒星って、こういう、足が尖った形と、全体的に丸い形の二通りの描き方があるから、『二面性』って意味もある」  そこで白石は言葉を切り、コーヒーに口をつけた。誰からも声が上がらないのを見て、話を続ける。 「あとは……そうだね。『七』という数字に着目するなら、数秘術だと『神性』『真理』『永遠性』だし。転じて高等魔術、主に神性の召喚や憑依なんかに使われる。そういう意味では、扱いの難しい図形だよ」  開いた手帳に先に描いていたものとは違うパターンの七芒星を描き、その意味を横に書き連ねていく。魔法陣という単語が、過去に巻き込まれたとんでもない騒動の数々を想起させる。心底当たって欲しくない予想である。げんなりしつつ、居残り組に話を促した。 「こっちは大層なものはなかったですねぇ。前の院長の焼けたっつー家の住所くらいで」 「さすがに更地になってるんじゃないですか? 五年も経ってるんですよね?」 「取り壊した、という話も売却した、という話も聞いていないので、まだあるのではないでしょうか。帯紙は隠れて処分の手続きができるほど時間はないかと」 「へえ。なら、次はここに行ってみますか」 「その前に」  白石が言葉を切る。そうして、小口に向けて伺うように切り出す。 「栞ちゃんのお見舞い、させてもらえるかな?」  長い沈黙の後、小口はそうですね、と小さく息を吐いた。本来であれば親族以外の面会はできませんが、皆さんは帯紙を見つけてくださったので。関係はないかもしれませんが、前院長の死のきっかけになってしまったと言われるものが、彼女自身にもあるのかもしれません、と。

エレベーターでひとつ下の階へ降り、目の前にあるステーションで鍵を借りるやりとりを眺める。病院の作りは一般的なそれと同じで、特に変わったところは見受けられない。ステーションの雰囲気も、病院の雰囲気も特段悪くは感じないのだから、内実はともかく、表面上はうまく行っているのだろう。自ら進んであの状態を作り出したのか? しかし、白石の話を聞く限り、その線も薄そうだ。一番の候補はやはり、前院長の息子、だろうか。  そうこう考えているうちに、小口がICカードキーを受け取り、廊下を歩き出す。目当ての病室は少し奥まったところにあるものの、そこまで離れてはいなかった。カードを扉横の機械に触れさせれば、小さく解錠音が聞こえる。  扉を開けば、広々とした居室のような空間が広がっていた。シックにまとめられた質の良い家具類や床に敷かれた絨毯は、ここが病室であることを忘れてしまいそうだ。  それを現実に引き戻すのは、部屋の角、二面の壁に大きな窓が付けられたその下。据え付けられた大きなパイプベッドと、その横にある数多の物々しい機器類。鼓動を追う電子音。空気の出入りする音。低い駆動音。その全てが、柔らかな絨毯に跡がつくほど重々しさと無機質さを素っ気なく表していた。  ベッドに繋ぎ止められているのは、まるでのその身の内を外付けされたかのような少女の姿だ。機械から送られる酸素。滴り落ちる栄養。埋め込まれた心臓。それはもはや、残される人間の執着の成れの果て。肉のある位牌とでも言うべき姿にしか見えなかった。  それぞれが部屋のあちこちへ行ったのを見て、自分は部屋の中にある扉を開く。見舞客のためだろうか、洗面台があり、それぞれトイレと浴室への扉がある。部屋の内装といい、ここに住むことができそうだ。多少使った形跡も見受けられるから、もしかすると前院長の息子が使ったのかもしれない。  中を一通り確認してベッドのそばへ戻ると、白石が花瓶に生けられた枝を見てうんうんとうなっていた。 「何を見ているんですか?」 「うん? ああ、これね」 「何なに? オレも見たい」 「お、さすが白石さん。面白いもんでも……おわっ!」  椅子に掛けられたジャケットを漁っていた樋田が集まっているのに気付いて振り向き、こちらに寄って来ようとした瞬間。妙な方向転換でもしようとしたのか、ふらついてこちらに倒れこんでくる。 「はあ……ちゃんと前を見てくださいよ」 「あー、悪いな……っと」  巻き込まれ事故が起きる前になんとか受け止めることができた。男を抱きとめておく趣味はないので、さっさと離れるよう促すものの、どうやら足を挫いてしまったらしい。息を詰まらせるのを見、花布が持ってきた椅子に座らせる。  小口に救急箱があるか尋ね、持ってきてもらったその中からテーピング用テープを取り出し、手早く固定していく。いっそこのまま病院を受診してほしいくらいだ。骨に異常はなさそうだから、おそらく単なる捻挫だろうが。 「それで、白石さんは何を見つけたんで?」  好奇心を隠し切れない様子で樋田が意気込む。先ほどケガをしたばかりだという気配は微塵もない。 「これだよ。白檀の枝に、模様が刻まれていてね。何か文字みたいなんだけど」  受け取った枝にうっすらと彫られているその模様。見覚えはないが、直感的にこれがどういうものであるか、経験でわかってしまった。残念ながらその手の知識は豊富であるので。 「ああ……これ、魔法陣の一種、といえばわかりやすいですかね」 「アンタまで……いや、それが本当だったとして、魔法陣ってのは丸いもんじゃねえの?」 「一種、と言ったでしょう。この文字自体がキーになっているようです。時空を歪めて、別の場所へつなげるような類ですね」 「瞬間移動的なやつか」 「そんな感じです」  その話を聞いてすごいすごい、とはしゃぐ花布に枝を渡してやり、そろそろ出ましょう、と声をかける。部屋を出る前にちらりと見たベッドに力なく横たわる少女は、青白い肌が骨の浮いてやつれた顔をさらに病的に見せていた。