次の予約までしばらく時間がある。看護師にそう声をかけられて、休憩室へ向かおうと席を立った。ここ、座途総合病院に勤めてそれなりになるが、総合病院というだけあって患者はいつも引きも切らない。 電灯が反射するリノリウムの床を、かけられる声におざなりに答えながら目当ての部屋の引き戸を開けた。入室に気付いて視線がよこされるのに手を振り、部屋の隅にある給湯コーナーへ足を向ける。 休憩室とはいえ、扉の外はそれなりに騒々しい。ここにいるのは、疲れ果ててつぶれた人間(仮眠室に行けばいいのに)と、きのう入荷したNEJM——ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンという二百年越えの世界的有名週刊医学誌——を暇つぶしに捲っている人間(Ⅱ型糖尿病の記事があった気がするからこっちに回してほしい)と、テレビでやっているニュースをぼんやりと眺めている人間(どこぞで最高気温を更新したと騒いでいる)くらいだ。どことなく漂う休憩室特有の弛緩した空気に、なんとはなしに詰めていた息を吐き出す。 戸棚から自身のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉を適当に入れ、湯を注ぎ、スプーンでくるくるとかき混ぜながら隅の席へ。白衣の裾をさばいて席に座り、湯気の立ち上るそれを傾けた。 「お、お疲れさん」 「またあなたですか。暇なんですか?」 「そんなに休憩かぶる頻度も多くはないだろ。つれないな」 「間に合ってます」 目の前の席が引かれたかと思うと、茶髪に染めた髪に四角いフレームの眼鏡をかけた同僚がニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。満月棘。残念ながら医大時代からそこそこの付き合いになる同僚だ。 「あ、そうだ。最近『頭隠し』っつー事件が流行ってるらしいんだけど。知ってるか?」 「はあ? 暇なら仕事してくださいよ」 「ちょっとくらい興味持てよ」 どことなく不満そうな声に、ちらりと視線を投げて先を促す。それに気づいたのか何なのか、頬杖をついた満月は、マグカップで隠してもなおわかる程に口端を釣り上げた。 「なんでも、急に頭が破裂するんだと。あっちこっちで起きてるせいで、ただでさえ人手不足なのに監察が全然間に合わなくて、法医もかなり出張ってるらしい。こっちにお鉢が回ってこなくて最高」 「いや、あなた資格ないでしょうが」 「そうだけど。まあ、うちに面倒な患者が来ないのはいいわ」 みんな死んでるし。そうのんきに続けてマグを傾ける男に呆れつつ、言葉を返してやる。面倒な気配はするが、気になるものは気になるので。 「私は外科でないのであまり関係はありませんが。それはそれとして、頭が破裂するだなんてどういう現象か気になりませんか?」 「あー、スイカに塩入れると爆発する、みたいな?」 「何言ってるんですか?」 「ほら、なんだっけな……熱した塩をスイカに入れると爆発するってやつ。頭でも似たようなこと起きそう」 「それは水蒸気爆発でしょう。脳に直接相当に熱されたものを注ぐなんて、物理的にも精神的にも、普通の人間にはできないでしょうね。まあ、だからこそ気になるんですけれど」 「わあ、さっすが古布森先生。じゃ、今度調べに行ってみないか? 国会図書館にでも行けば、何かしら文献があるんじゃないか」 「その棒読み加減、心底腹が立ちますね……まあいいでしょう。楽しみにしていますよ、満月先生」 話がひと段落したところで、満月の胸ポケットからコール音が響く。おっくうそうに通話ボタンを押し、返事をしながら飲みかけのマグをこちらに押し付けて足早に去っていった。呼び出しらしい。 テレビはチャンネルを変えたのか、夏のホラー特集となっていた。真昼からそんなものを流して、涼を取れるのだろうか。表示された時刻はそろそろ休憩の終わりを示している。自分のものと、押し付けられたマグを仕方なく拾って立ち上がった。 『あ、悪い。今日急患入ったから行けねえや』 待ち合わせに一向に現れない男に送ったメッセージの返信は、予想通りすぎて笑う気も起きない。どうせ「オンナノコと遊んでくる」なんてルビがつくに決まっているのだから。
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真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。 ――国立国会図書館法 前文
千代田区永田町。日本の国家中枢となる各種機関の集中するこの町の重要度は、幹線道路に車がひっきりなしに行き交っていたり、街頭に警察官が立っていたりすることからも窺える。 日々政治の駆け引きの行われている国会議事堂の隣に存在する国立国会図書館。その敷地に足を踏み入れれば、周囲を緑が遮り、忙しない喧騒から遠ざかったような印象を受ける。ここを訪れるのも、随分と久しぶりだ。 今回の目的は「医学的に頭部が破裂する症例が存するのか」「液体で満たされたボール状のものが破裂するための条件は何か」「頭部が破裂したとされる患者はどのような状態か」の三点である。 ひとまず主目的を探すなら本館だろう、とそちらへ足を向けた。大した荷物は持っていないので、コインロッカーのスペースを素通りし、まっすぐ入館ゲートへ向かう。財布の中から取り出した青い利用者カードを入口ゲートにかざせば、ひかえめな音とともにフラップドアが開いた。 そういえばこんな雰囲気だった、と思いながら正面にある広々とした待合スペースの横にある端末で検索をしていると、カウンターから何やら騒がしい声が聞こえてきた。 「えー! なんで禁止なんすか!? ちょっとくらいいいじゃないですかー!」 「ええと、その、ちょっと……」 「お兄さーん、図書館ではお静かに」 藍色のシャツにジーンズを履いた男が、カウンターの女性職員に面倒な絡み方をしている。栗色のボブカットの女性職員が困惑した様子で周囲をちらちらと見ているところに割って入った男は、チョコレート色のスーツにサングラスという、いかにもな風貌だ。その後ろには少しばかり困った顔をしたふたり連れの男が所在なさげに立ちつくしている。 「図書館ではお静かに」 「え、ああ、耳障りだったようですみません」 「ほら、後ろ、待っている人がいるんですから、場所を移すか日を改めた方がいいんじゃないですか」 「そうそう、ナンパならもうちょっとうまくやった方がいいですよ」 「あ、ナンパだったんですか? それは失敬」 声をかければ、自覚はあったのか振り向いてへらり、と謝られた。次いで飛ばした注意にすかさずノってきたスーツの男の言葉に、女性職員に絡んでいた藍色のシャツの男は、大仰に否定してみせる。 「いやいや、ナンパじゃないですよ。理由さえ聞ければ、すぐにいなくなるんで」 「ナンパに理由が?」 「『亞書』っつー本がここにあるって聞いて」 「『亞書』?」 「まあ、オカルトの一種なんですがね……」 「あの、すみません。そちらの後ろの方は?」 カウンター前で話し込もうとしたところで、職員が遠慮がちに声を上げた。振り向けば、先ほどから立っていたふたり連れの片割れが朗らかな笑みを浮かべてこちらの様子をうかがってる。 「すみません、話し込んでしまって」 「いやあ、大丈夫。若いっていいなあって見てたからね」 「そんなに若くはないんですけどね」 「ううん、僕からすればすごく若いよ」 思わずといった風に出た謝罪も、軽く笑って流された。黄色いポロシャツを着た白髪交じりの男とは対照的に、ぼう、と突っ立っている男はワイシャツにグレーのスラックス。深い緑のネクタイまできっちりと締めた出立ちは、隣の男のラフさと相まってどうもちぐはぐな印象を受ける。 「あ、よければこのカードの利用者の情報を教えてくれないかな。なんか名前がはがれちゃってさ、これどうなのかなって思って持ってきたんだけど」 「はい、ちょっと待っててくださいね。すぐ調べられますので」 そう言って、彼女はカードを手元のリーダーにかざし、端末に指を滑らせる。胸元の名札は「花布」となっているが、なんと読むのだろう。はなぬの、いや、はなぶ、だろうか。 「お待たせしました。ええと、名前は帯紙捲さんでしょうか。五四歳で、住所は……あ、これご自身で後から訂正されていますね。武蔵野市境南町の……あれ、ここ病院ですよ。境南町一丁目なんて、架倉総合病院くらいしかないんじゃないですか」 「ふうん、そうなんだ。何か間違ってたのかなあ」 「それから……残っている貸出履歴は、週刊クルックの二○××年×号。検索履歴は『二〇××年×月×日 成城 火災』……これ、さっきのクルックのやつですね。あとは『亞書』だけ……と、ここだとほかの方の邪魔になりますし、こちらへどうぞ」 そう言うと、彼女はカウンターの外へ出、正面から少しばかり外れたところへ誘った。 「『亞書』、ねえ」 「このお兄さんも『亞書』を検索してるんだね」 「そうだ、さっきから出てる『亞書』って何なわけ?」 スーツの男の言葉に、視線が一斉に紺色のシャツの男に集まる。オカルトチックな話ですよ。 そんな前置きから始まったのはリアルタイムで起きている都市伝説の話だった。ここ数か月、『亞書』と呼ばれる謎の本がここ、国立国会図書館に大量に納本されている、というものだ。 確かに、日本での刊行物は国会図書館への納本義務があり、小売価格の半額を代償金として申請することが可能である。ただし、『亞書』は書店に並んでいる形跡はないうえに、ネット通販の販売ページは削除されてしまっている。しかも、販売実績すらもないという。つまり。実質一冊も世に出ていない代物だ。 にもかかわらず、国会図書館に納本されている、という奇妙さ。ゆえに、インターネット上で「故人の遺作を編纂したもの」「マネーロンダリング」「海外の諜報員から送られてきた暗号化された機密文書の漏洩」というものや、「納本義務を悪用した代償金詐欺」などという噂がまことしやかに囁かれ、密かに盛り上がりを見せているという。 しかしながら、現在国会図書館に納本されている『亞書』は一般閲覧不可。理由も内容も不明。その理由も「読むと死ぬから」という噂のみ。なれば、実物を一目見んと交渉しにやってきた、というのがナンパの次第らしい。 聞けばオカルト誌にも寄稿する記者だとか。いかにもな話である。 「なんで、騒いでたのはすみませんが、何分メシのタネということでお目こぼしいただけないですかね」 「いやでも迷惑はだめですよ」 「迷惑はだめですね」 「普通に聞いてるだけなんすけど……」 そんな台詞で締め括られた話に思わず口を挟めば、同調するようにスーツの男も声を上げた。記者だとかいう男の嘆きを聞く必要はない。 「それはそうと、大丈夫でしたか、お嬢さん……ええと、はな……?」 「あ、ありがとうございます。はなぎれ、と読みます」 どうやら「花布」は「はなぎれ」と読むらしい。花布結、と名乗った職員は、ここで司書をしているという。そうして、好奇心を隠しきれないかのようにキラキラと目を輝かせながら、件の『亞書』について口を開く。曰く、気になってはいるが、国会図書館に納本されてから誰も中身を見ていないのだ、と。 「では、『亞書』の場所だけ教えてもらえますか?」 「ああ、実は今、『亞書』は閉架にしまわれていて、一般閲覧が禁止されているんです」 気を取り直して、本題を口にする。当初の予定とは違っているが、こちらの方が面白そうだ。 「納本された本は最初にどのジャンルか分類するために中身を読んで精査する作業が必要なんですが……精査作業中の司書が途中でいなくなってしまって、作業が止まったままなんです」 「いなくなった?」 「それは、行方不明ということですか?」 いいえ。はっきりとそう口にした花布は、周囲に視線を走らせる。図書館ではあるものの、カウンターの側は多少騒がしい。そのざわめきに紛れさせるように、花布は声を潜めた。 「その司書、全然連絡が取れないまま無断欠勤が続いたので、警察に相談して職員が一緒に自宅のマンションに行ったんです。インターフォンを押しても反応がなかったので、管理人さんに鍵を借りて警察が中に入ったら……壁も天井も、部屋中に赤黒い肉片がへばりついていて、首から上がなくなった死体が膝を抱えて座っていたんですって!」 「ええ!? すごいですね」 驚愕の声に頷き、花布は続ける。つまり、この職員は「頭隠し」の被害者、というわけだ。数日前に同僚から聞かされた話がこんなところで繋がるとは。この手の話は不可抗力で巻き込まれたり首を突っ込んだりして残念なことに豊富になってしまった経験から察するに、十中八九その『亞書』とやらが原因だろう。 「そうなんです! それ以来、司書の間で『亞書』を読むと死ぬって噂が回っちゃって」 「それは怖いですねえ」 ほとほと困った、とでも言うように、花布は首を振った。確かにそんなことでもあれば誰もやりたくなくなるだろう。事故物件に人が住みたがらないのと理屈は同じだ。しかも、未だに『亞書』の納本は続いていて、もうすぐ百冊に届くとか。未分類のまま、誰も手をつけたがらない本が百冊。ぞっとしない話だ。 「いろいろとよからぬ噂が立ってしまっているので、いい加減精査作業を再開しなきゃいけないんですけれど、死ぬのは嫌ですし、そうでなくてもなんだか怖いですし……」 「へえ、じゃあオレが精査しましょうか、君のために。内容、気になっているんですよね。わかったら教えるんで、LINE交換しません?」 「わあ、ありがとうございます! 不謹慎かもしれませんが、私、オカルトが大好きで。『亞書』なんて都市伝説、タイムリーですっごく気になってたんですよ!」 そう言ってポケットから携帯電話を取り出した男に応じ、花布は連絡先を交換している。これはいいのか。一応勤務中なのではないのだろうか。記憶が間違っていなければ、国会図書館の職員は国家公務員のはずだが。 「ナンパがふたりに増えただけでは?」 「いや、俺はナンパじゃないっすから」 「いやそんなナンパだなんて刑事はしませんよ。あ、オレ月兎耳二色ね、花布さん」 「はい!」 思わず口をついて出た言葉は、記者の男に否定された。ナンパを無事に成功させた男は刑事らしい。刑事というのは暇なのだろうか。仮にも頭隠しだとかいう聞いただけでも面倒そうな事件がそこそこの頻度で起こっていると同僚から聞き及んでいるのだが……まあ、刑事にも休日はあるだろうし、事件担当でなければ関係はないか。 「まあ、読ませてもらえるならそれに越したことはないんですがね」 「オレは一応、その司書さんみたいな、そういう死に方した事件を調べてるんで、一応オレも見たいかな、『亞書』のこと」 「じゃあ、僕も読んでみたいなあ、『亞書』。この人の記憶が戻るかもしれないし」 「へえ、記憶喪失ってやつですか」 「そうなんだよねえ」 人好きのしそうな男も『亞書』に興味があるらしい。連れのぼうっとした男は記憶喪失だとか。所持品がここの利用者カードで、名前の部分がご丁寧に削られている、だなんて。何に巻き込まれているのだか。 「わかりました。じゃあ、ちょっと内緒で持ってきますね! あ、クルックの方はどうしますか?」 「オカルト雑誌ですけど、信憑性はまあ保証しますよ。なんか思い出すかもしれないし、一応? 読んでみるのはどーですか」 「じゃあ読んでみようかな。記者さんの言うことだし。プロに従おう」 「では持って来ますので、待っていてくださいね」 そう言って、花布はカウンターから出て行った。通常、閉架に終われている書籍は、端末で貸し出し手続きを行なった後、書庫で勤務している職員により探し出され、それが本用のエレベーターに乗せられ、カウンターまで届けられる。最大収容数千二百万冊を誇る国立国会図書館は、休憩スペースなど何もない、天井近くまである本棚が延々並んでいる階層が数階分存在しているのだ。 残された男たちは、顔を見合わせる。そうして、朗らかな声で口を開いたのは、ふたり連れの片割れだった。 「ええと、みんなは『亞書』について調べてるってことで良いのかな? 僕は白石。探偵をやっていて、こっちの……帯紙さんの依頼を受けているところだよ。これも何かの縁だし、助けになれそうだったら連絡してね」 ラフな格好をした男改め白石は、そう言ってにこりと微笑み、ポケットから取り出した青みのある革の名刺入れから取り出した名刺を配る。使い込んでいるのか、艶の増したその内側は赤く、軽装なだけにちぐはぐさが際立つ。しかしながらその声音も相まって、人の警戒心を解くのが上手そうだ。交渉ごとをするのにきっと向いているのだろう。 「これはどうもご丁寧に。俺は樋田。さっきも言ったけどしがないフリーライターやってるんで、良いネタ知ってたらリークしてほしいっす」 記者改め樋田は例に漏れず、オカルト雑誌を中心としたフリーライターらしい。顎辺りまで伸ばされた癖のある髪によれた綿のシャツ、引っ掛けただけのネクタイ。胡散臭さは群を抜いている。 「なんだか色々ありそうですねえ……僕は古布森です。よろしくお願いしますね」 努めて穏やかな笑みを浮かべる。患者には「穏やかで丁寧で優しい」と評判なのだが、何かしらの事件に遭遇して行動を共にした面子からは尽く「怖い」「胡散臭い」「信用ならない」の三拍子だ。心外である。こんなに誠実な男はそう居ないと思うのだが。 「オレは野郎とよろしくする趣味はないですけど……月兎耳です」 それだけ言って、普段からスーツを着なれているのであろう男改め月兎耳は肩を竦めた。男女でここまで対応が変わる男も珍しい。染め上げた金髪も相まって顔が良いのだからこれはこれでうまく行っているのだろう。身近な成功例を思い出し、そっと息をついた。 顔と名前が一致すれば、残りの一人に注目が集まる。どこまでも反応の薄い帯紙(暫定)に、隣に立っていた白石が困ったように首を傾げる。 「うーん、帯紙くん、絶対に何か知ってるんだろうけど、何にも覚えてないからなあ」 「すみません……私は、帯紙、というのですね」 「そう。名前がないと不便だからね、仮で帯紙くん、ということで。図書館のカードの登録もこれだったみたいだから」 聞かされた登録名もどこか朧げだ。上の空というよりも、地に足がついていない、と言うべきか。現実味の薄い反応が返ってくるのは、記憶喪失の症例にありがちだ、と聞いたことがある気がする。 「ありがとう、ございます」 「とりあえず仮だよ、仮! 名前がないと不便なんだもん。まあカード持ってたからって本人だとは限らないけどさあ。とりあえず、名前がないと、すごく言いづらいから」 「ああ、そう、ですね」 ぼんやりとした返事がふたたび返ってきた。単に頷いているだけにも見えるが、名前をそうだと認識したのだから、自分で思考するだけの余地は多少残ってはいるらしい。 「記憶喪失ってやつでしたっけ」 「そう。どうも何も覚えてないみたいで。手がかりがここのカードだけだったんだよね」 「それ、警察行った方がいいっすよ」 なんでも、朝事務所を訪ねてきた帯紙は開口一番に「私のことを調べてほしい」と言ったという。所持品は探偵事務所や興信所のリストと現金、国会図書館の利用者カードだけ、という奇妙さから、とりあえずここを訪れたのだとか。何かわかれば万々歳、わからなければ警察に行くつもりだったと語った。 「ここに警察っぽい人がいますけど」 「俺別件なんで関係ないんで」 「そんなこと言っていいんですか? 警察官は市民を守ることが義務だって、僕の知り合いの警察官も言ってましたよ」 まあ、あの人の口からそんな素晴らしい台詞はついぞ聞いたことはないが。なんとはなしに投げた言葉に、いたく感心されてしまった。本人はいないし、これから会うこともないだろう。まあ、悪いことを言っているわけでもないのだし。
* * *
「お待たせいたしました。『クルック』と『亞書』です」 随分と話し込んでいたらしい。花布が、件の本を抱えて声をかけてきた。どちらも興味がある本には違いないので、閲覧室へ場所を移す。花布は業務へ戻る、とカウンターの中へ引っ込んでしまった。 「さて、どっちから読みます?」 「二手に別れてもいいけど……」 「うーん、雑誌の方が気になるし、こっちからにしようかな」 言い訳はするものの、誰も『亞書』を開こうとしない。ロクなものではない、と分かっている曰くつきの本よりも、確実に安全だとわかる方から情報を得たいというのは、誰もが思うことだ。 男四人で顔を突き合わせ、件の雑誌を覗き込む。「大病院院長、作家妻を巻き込み焼身自殺か!? 悲劇の不倫と残された子どもたち!!」というセンセーショナルな見出しが表紙を飾っていた。 なるほど。この帯紙の住所として登録されている架倉総合病院。その院長の死。原因となった儀式と謎の火災。作家妻と不倫相手の死。脳死状態の娘に、ひとり残された息子。なるほど。 「へえ」 「まあ有名人がこういうことしてくれるとメシのタネになるから助かるんだけど」 「はあ、医者としては、病院の評判が落ちるんであんまりよろしくはないんですけど」 「こういうのはひっそりやったらいいのにねえ……火事にならなくても、いつかは表沙汰になっていただろうけどね」 話を聞いた面々の感想は、なんというか、少しズレていると言わざるを得ない。白石が一番まともなのではないだろうか。 「ねえ、帯紙くん、これ、覚えてる?」 「……いえ」 「そっか。残念だなあ」 さして落胆した風もなく、白石は雑誌を指でなぞる。太字で抜かれた文字が踊る雑誌は、何を返すこともない。 「じゃあ、次は『亞書』っすね……俺は読みますけど」 「俺は読みますよ」 「ううん、じゃあ僕も読もうかな」 「オレは遠慮しておくわ」 「僕も遠慮しますね」 明らかに危ないと分かっているものを避けるだけの分別はある。記者である樋田はともかく、白石お人好しなだけではないのか。読むと死ぬ本。それは嘘か真か。目の前のふたりの頭が弾ける瞬間を目にしないことを祈りつつ、向かいに腰を落ち着ける。 「あれ、この本……白檀の香り……?」 本を開くときに微かに香ったのだろう。本に香を焚きしめるだなんて随分と凝ったものだ。しかし、商品として販売するものならまだしも、納本するものにまで香り付けとは随分と凝っている。 「あ、ギリシア文字が使われているね」 「ああ……なんかこの文字列、何かパターンがあるような……」 本を開いてそう言ったきり黙り込んでしまったふたりの様子に嫌な予感がして、その本をのぞき込んだ。月兎耳は信じられないものを見たかのようにこちらを見ている。
ページがめくられた。文字の羅列。日本語ではない。白石の言うようにギリシア語なのだろう。それを認識する前。考えるより先に、脳裏に視覚ではない情報が入り込んできた。 深い闇の底。月と雲の浮かばぬ夜空。その下に、空との境界線のない影のプールが広がる。この世にある常闇を寄せ集め、密度を持たせ、濃縮された黒い泥。その泥から真っ白い手が伸びてくる。 細く、小さく、幼い手。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えてはきりがないほどの無数の手がうごめく。ふと、そのうちの一対が顔に伸びてきた。何かを求めるようにも、拒絶するようにも見える。それは、恐怖以外の感情の想起を捨てられたこの空間にあっても、どこか物悲しく、切なく見えた。 白い手は迫る。拒否権はない。実態を持った死の恐怖が自身の身体を縛り上げている。頬を挟むように触れるその手は、冷気とは違った冷たさがある。触れられているのは頬のはずなのに、魂が包まれている感覚。柔らかく包まれた魂が、そこから凍っていく。凍てついていく。 瞬間、黒い泥の水面が大きく脈動した。触れている白い手の血管を、黒い液体が遡上し、保存液に浸された血管標本のようにその白い手を黒く染め上げる。 やがて、粘度のある黒い影が白い手のつま先からじわじわと染み出し、頬を汚していく。皮膚についた黒い液体は何の抵抗もなく内側に染み込み、絶望の感情を刷り込んでいく。 黒い液体が血管を伝い、脳髄に広がり、頭の中に「死」が充満する。心臓が鼓動するたびに、ひとつ、またひとつと。自分が自分でなくなっていく感覚がする。精神の処理能力を超えた膨大な「負」の情報に、意識を手放そうとする。 眼球も液体で覆われたのか、もはや目を閉じているのか開けているのかすら定かではなく、心も体も黒く塗りつぶされるその寸前、自身の口から言葉がこぼれた。 「しにたくない」 それは、目の前の白い腕から入り込んできた切なる願い。そう理解したところで、意識は黒く塗りつぶされた。
気が付くと、図書館の読書スペースで、『亞書』を前に絶叫していた。目からは涙が止まらず、全身の毛穴からは脂汗が噴出している。叫びながらも次第に落ち着きを取り戻しかけたとき、周囲からも絶叫が上がっていることにようやく気付く。 閲覧室を見渡すと、数人の利用者が、喉が引き裂けんばかりに叫んでいた。周囲の人間は何が起きたのかわからずにすくみ上っていて、誰もその絶叫を止めることはできない。その声は男のものもあれば、女のものもある。 しかし、皆一様に目から大量の涙を流し、立ち上がって叫んでいた。数秒後、示し合わせたかのようにその全員が声をぴたりと止め、虚無を映したかのような無機質な瞳が、一斉にこちらに向けられる。しばしの静寂のあと、ぽつりと呟かれたそれは、息の詰まるような緊張感の中で、殊更大きく響いた。 「「「しにたくない」」」 寸分の狂いもなく全員が同一のタイミングでそう言うと、彼らの顔が見る見るうちに膨れ、泡立ち、腫れ上がり——そして爆ぜた。 周囲は一瞬のうちに血と肉片が飛び散り、地獄の様相をなす。パニックを起こして逃げ惑い、蜘蛛の子を散らしたかのようにあっという間にいなくなった。 その様を見ていると、どうしようもない衝動に駆られる。あの手が掴むすべてを無へ返してやりたい。懇願するかのように必死に伸ばされたその手を掴んで引き上げる。そのためには、すべてをあの手の元へ連れて行かねばならない。すべてを、無に、帰さねば。そして、その生が輝くものであるように。 「ああ、みんなかわいそうに。無に帰してあげますね」 「え、大丈夫? どうしたの?」 何かが肩に触れた。ゆるりと撫でさすられ、強張っていた肩の力が抜ける。多少の耐性はあると思っていたが、それとこれとは別らしい。ふ、と息を吐けば柔らかな声がかけられる。それに緩く笑みを返した。 「……人間って、こんなに癒しオーラを発することができるんですね」 「ええ、どんな生活してきたの?」 「どうもこうも、生活なんてごはんを食べて寝るだけですよ」 「その生活が怖い、知りたくない……」 「え、これどういう状況?」 周囲から立ち込める血臭。飛び散った肉片。骨であったであろうもの。髪のついた塊。原型すら残さず、きれいに頭部だけがなくなっている。これが——頭隠し。 「なんか、スイカがパーンって破裂した感じっすけど……?」 「わけわかんないんですよね、急に叫び始めて。めちゃくちゃ怖かったんだよ」 「やーびっくりした。こんなことに遭遇するなんてね!」 「なんでアンタらはじけてないんですか?」 「え? 頭が丈夫だったからじゃないですかね」 白石と周囲にある死体の様子を確認すれば、転がっている死体はすべて同様の状態であることがわかる。無事だった人々はパニック状態で出入り口に殺到している。職員が誘導する声が聞こえてきた。 「大丈夫?」 「はあ……私は何とも」 「この人、いろいろ置いてきたみたいだな」 「そっか。大丈夫だったらいいんだけど」 傍で変わらずぼう、と立っている帯紙に声をかけても、ぼんやりとした返答しか返ってこない。これはダメだ、と視線を動かせば、樋田が死体の写真を撮っていた。気分の良いものではないだろうに、よくやるものだ。既に自分たちを除いた人間はあらかた退館したのだろう。悲鳴と混乱が遠くから聞こえる。 「大丈夫でしたか?」 「だ、大丈夫です。ありがとうございます」 職員として誘導をしに来たであろう花布が、どこか強張ったような表情で閲覧室へ入ってくる。そこへ、月兎耳がすかさず声をかけた。震える声で言葉を返す花布を抱きしめ、その背をさすってやる。ほう、と息をついた花布は、月兎耳を見上げてもう一度礼を告げた後、こちらです、と出口を示した。
国会図書館の周囲は喧々囂々としていた。泣き喚く者、しゃがみ込んで震える者、茫然自失となる者、パニックから暴れる者。そこにハエのように集る野次馬、通報を受けて続々とやってくる警察車両に救急車。そんな中をすり抜けるように離れていく。 悪運が強かったからなのか、それとも他に要因があったからなのか。幸にしてあの場で『亞書』を囲っていた自分を含めた三人の頭がなくなることはなかった。閲覧室の中にも幾人か犠牲となった人間はいたものの、本棚がうまく遮蔽物となったからか、自分たちの服に目立つ血痕は付着していないようだ。たとえ、血液がついてしまったとしても、この暑さですぐに乾いてしまうだろう。 しかしながら、あの場から持ち出してしまった死臭は衣服から匂い立ってしまっている。既に鼻が馬鹿になっているに違いない自分たちとは異なり、周囲からの目もある。こんな状態では服を買うこともできない。 ひとまずどこか落ち着いて話ができるところを、と樋田が裏手からぐるりと回って連れ出したのは、そう遠くない公園だった。憲政記念公園。国会議事堂の裏側にあるここは、喧騒を木立が遮ってくれる。どれだけ直面しても慣れない「死」の匂いに、詰めていた息がようやく吐き出せたような気がした。 「読むと死ぬ本、かあ」 「こんなことになるとは、さすがに思わなかったっすねぇ」 「同感。思ったよりめんどくせえな」 思い思いに言葉を吐き出す。歩いている間に大分落ち着いてはきたが、それにしてもなぜ、という疑問が尽きることはない。なぜ、無事な人間とそうでない人間がいたのか。あの場で犠牲となった人々はすべて『亞書』のせいで亡くなったのか。ならば、何がトリガーとなったのか。 「ううん、考えてもわからないものはわからないから、とりあえずご飯にしない?」 先に進めるためには判断材料が少なすぎる。無為に時間を過ごすよりは、と白石が腹に手を当ててわかりやすく提案してきた。時刻は昼過ぎ。確かに空腹を覚えるころだ。 「いいっすね。じゃあ、ラーメンでもどうっすか。近くにウマいとこがあるんすよ」 「お、良いねえ。ラーメン。みんなはどう?」 「オレもいいでよ。あんまこの辺来ないし、任せます」 「僕も構いませんが……」 馬鹿みたいに暑いのに? という言葉をどうにか飲み込む。脱いだジャケットを小脇に抱え、歩き出した三人の後をゆっくりと歩き出した。ちょっと歩くけど良いっすよね、と木陰すらないアスファルトの照り返しの厳しい道を歩いていく。国会議事堂の横を通り過ぎ、どうやら赤坂方面に向かっているらしい。 「あ? 誰……お。もしもし、大丈夫だった?」 今まで出会ったちょっと変わった人物シリーズで盛り上がっていると、月兎耳の携帯電話に着信。呼び出しかと面倒そうな顔をしたのは一瞬で、着信相手をみた瞬間にデレッと相好を崩した。そうして続く甘い声。さっきの彼女か、と目配せすれば片や愉快そうに、片やほんわかした様子で頷きが返ってきた。 「うん……そっか、よかった……ちょっと待っててくれる? ……樋田さん、これから行く店ってどこ?」 「ああ、赤石っすよ。赤坂駅の近くっす」 「あー、あそこか……ああ、赤石って言うラーメン屋なんだけど、わかる? 赤坂のちょっと手前の、っていうか、そもそもラーメン屋大丈夫? ……そっか。図書館からだとちょっとあるけど、パークタワーまで来てもらえる? ……そう、溜池山王の……ん。待ってる。気をつけてね」 どうやら交渉は終わったらしい。本人が乗り気なのもあるだろうが、流石の手腕である。花布ちゃん、こっち来るって。端的に伝えた月兎耳はしげしげと見られていたことに気付くと眉根を寄せる。 「ああ、いえ。流石だな、と思いまして。それより彼女、職員にしては随分と早い開放なんですね」 「確かに。抜けてきた俺たちが言うのもアレっすけど、色々仕事もあるんじゃないんすか?」 「そうだねえ。でも、こっちに来るなら聞いちゃえばいいんじゃないかな」 殺人的な暑さだ。月兎耳の英断に内心拍手を送りつつ、そびえ立つ超高層ビルへと足を向けた。地上四十四階のオフィスビルではあるが、テナントも入っているし、エントランスで少しばかり待たせてもらう分には問題ないだろう。外で茹だるよりよっぽどマシだ。 忙しなく行き交う人々を眺めながらのんびりと待っていれば、幾分もせずに月兎耳の携帯電話が再び震えたようだ。携帯電話を耳に当ててすぐ、待ち人が現れる。着替えたのか、水色の軽やかなワンピース姿だ。少しばかり憔悴したような顔をしているが、気丈に振る舞っていることが見て取れる。 「あ、みなさん、お待たせしました!」 「そんなに待ってないよ。大丈夫?」 「はい、ありがとうございます」 「じゃあ、ここで長話も何だし、ご飯に行こうね」 花布さん、ラーメンは大丈夫? はい、私も月兎耳さんに伺って、すっかりラーメンしか受け付けない舌になっちゃいました。なんて和やかに話をしながら、焼かれそうなほど強い日差しの外へ繰り出す。外堀通りを越えれば、あっという間に飲食店が軒を連ねる歓楽街だ。 件の店はホテルの中にテナントとして入っているらしい。五分程度の移動でしかないが、じんわりとかいた汗が冷房で冷えていくのを感じる。すぐ目の前にあった暖簾を潜り、元気のいい声に案内されるようにして席へ。六人の大所帯であるが、たまたま退店した客の席が空たようで、然程待つことなく着席できたのは行幸だろう。 思っていたよりもメニューが多い。席に置いてあったメニューを眺めながら、水を配りにきた店員に注文をしていく。 「あ、オレ味噌のチャーハンセットで。餃子も頼もうかな。花布ちゃんは?」 「私はオススメのタンメンでお願いします!」 「俺は醤油のチャーハンセット。キムチと味玉、麺固めで」 「僕は味噌ラーメンにします」 「みんなよく食べるなあ。ううん、じゃあ、僕は塩ラーメンにしようかなあ。帯紙くんも僕と同じのでいい?」 「はい」 「じゃあ、塩ラーメンふたつ、お願いします」 六人分の注文を復唱し、店員は元気に注文内容を店に響かせると、カウンターの中へ注文票を渡しに行った。そうして、退店する客の精算を行い、テーブルの掃除、次の客の接客と、広くはない店ではあるが、くるくると忙しなく働いている。 待っている間に花布の話を聞いてみれば、あまりにも規模の大きな事件ではあるにもかかわらず、同時多発的かつ爆発物の痕跡の一切ない原因不明さということも相成り、警察の捜査中は立ち入り禁止となるらしい。本の状態が気になるものの、そちらは常勤の職員が警察立ち会いのもと作業を行うようで、それ以外の職員は当時館内にいた人間の連絡先を改めて確認し後、退館することになった、とのことだった。 「おまたせいたしました!」 簡単に経緯を聞き終えたところで、タイミングよくラーメンが続々とやってきた。後から後からチャーハンやら餃子やらが届くため、テーブルが狭い。 湯気の立ち上るスープから香る味噌のにおいに食欲が刺激される。うっすらと油の浮いたスープにひたされて味噌の色へと染まったモヤシに、添えられたメンマ、山と盛られた刻みネギ、少し厚めに切られたチャーシュー。 一口スープをすすれば、豚骨だろうか、動物系の出汁に濃い目の味噌の風味がガツンとする。縮れの少ない麺がスープによく絡み、シャキシャキとした歯ごたえの炒めモヤシが口の中をさっぱりとさせてくれた。 ヤンニョムも捨てがたいが、これ以上発汗する気分ではなかったので、酢で味を変える。味噌のパンチが少し和らぎ、溶けだしたモヤシとネギの風味が感じられるような気がする。 ラーメンを食べる合間に水を飲んでいれば、白石はうまそうに麺をすすり、帯紙は黙々とスープを飲んでいる。樋田は写真に収めてから遅れて来たチャーハンをスープとかきこんでいた。花布は予想以上に量の多かったらしい野菜と格闘していて、食べきれない分を月兎耳に譲る代わりに、餃子をはくはく、と食べている。 「午後はとりあえず、病院になりますかね」 「そうしてもらえると嬉しいかな。帯紙くん、きっと架倉総合病院に縁があるだろうしね」 ごちそうさまでした、と食べ終えたらしい白石が手を合わせてからそう言う。ここまできて降りるつもりは毛頭ないため、ついていくことにする。外堀通りに出ればタクシーの一台や二台拾えるだろう。適当に会計を済ませ、再び日差しの降り注ぐ外へ繰り出す。花布の分は当然のように月兎耳が払っていたが、残念ながら僕の分は出してくれなかった。