大きな扉をノックする。短く応えがあってから、その大きな扉が開かれた。中には大きな木製の机。その前にある大きな椅子に埋もれるように腰掛けた男が、黙々と書類を捌いていた。  ひと声かけて部屋に入った男は皺一つない黒いスーツに身を包み、手にした盆にはティーセットが並んでいる。扉の前で優雅に一礼すると、書類の脇に追いやられているカップの中身が半分以上残ったまますっかり冷めてしまっているのに眉を寄せた。 「あまり、根を詰めてはいけませんよ」 「ああ。これが終わったらな」  ちらり、とやった視線の先には決裁待ちの山。どれもこれも至急の文字が付いていて、重要度が判別しにくくなってしまっていた。ひとまず冷めてしまったカップを下げ、丁度落ちきったダージリンを丁寧に入れる。 「何か出来ることは?」 「重要度……いや、決裁期限の近い順に並べ替えてくれ。明日から暫く外だったな」  ソーサーを目の前に置いてやれば、渋々とそれに口を付ける。本人が思っているよりも身体は水分を欲していたようで、すぐにカップは空になっていた。今度は茶菓子を添えて供してやると、視線は外さないままにもそもそと頬張った。 「ええ。明日は午前中に緊急時の対応協議が六本木。それから赤坂で災害時の支援協定の締結式があります。明後日から癌の先進医療に係る研究会が午前から。こちらは博多ですので、前泊となります。それから」 「もういい」 「左様で」  男はつらつらと予定を並べ立てていた口を閉じると、ファイルを揃えて未決裁箱に入れ直す。それで、いかが致しましょう。 「決裁済みのものは担当者に返却を。未決の方は担当者の都合を聞いてきてくれ。聞きたいことがある……博多は代理ではダメなのか?」 「もう出席の連絡をしてしまいましたので」 「わかっている」  書類を投げ出したところで何も変わらない。もう一口カップに口をつけ、再度埋もれるように紙の山を崩す作業に取り掛かった。 「失礼致します」  決裁済みと差し戻しのものが混ざらないように丁寧に抱え、男は部屋を辞す。  ひんやりとしたリノリウムの床。風で僅かに音を立てる窓。今までいた部屋とは打って変わった寒々しい雰囲気に、思わず身を震わせる。窓の外は曇天に覆われ、今にも雪が降りそうだ。  腕の中の書類の行き先の順を考えながら、真白い廊下を進む。何か白いものが視界の端を横切ったような気がした。ひらりひらり、軽やかに雪が舞っている。

* * *

ジリジリと騒がしく音を立てる目覚まし時計を手探り止め、少年は布団を頭まで被り直す。何かが落ちる音がしたが、毛足の長い絨毯のおかげで然程音もしない。落ちた物が壊れることがないことも、経験上知っていた。 「おはようございます! 朝です! 雪です! 起きてください!」 「寒い」  少年は、布団の外から聞こえるよく耳にする幼い声が聞こえないよう、一層深く潜り込んだ。完全に無視された形の子どもは、その柔らかそうな頬をぷくりと膨らませる。そうして、大きく息を吸い込んだ。 「ゔっ……」 「起きてください!」 「……わかった。起きるから退いてくれ……重い……」  勢いよく飛び乗られ、顔の真上で叫ばれれば最早布団の要塞など意味をなさない。渋々布団から顔を出して言えば、パッと顔を輝かせた。 「おはようございます!」 「……おはよう……」 「では、お洋服を持ってきますね! 寝ちゃダメですよ!」 「ああ」  元気なあいさつとぱたぱたと部屋を出ていく背を見ながら、ひとまず身を起こす。布団から出るのはまだ寒いため、ぐるりと掛け布団を巻いた。すぐに扉が開く。 「あ! ちゃんと起きてました!」  笑顔で駆け寄って来たにもかかわらず信用のない言葉に、その頭をぐりぐりとかき混ぜれば、きゃらきゃらと楽しそうな悲鳴が上がった。そうして、その腕で抱えるには量の多い服を渡される。 「だって、またおふとんに入ってると思ったんですもん」 「悪かったな」 「ふふ。でも、坊ちゃんを起こすのはぼくのお役目ですからね!」  心底嬉しそうに言う声にぎこちなく頷いて、少年は着替えのための退出を促したのだった。

温かな肌着にシャツ、そこにふわふわとした葡萄色のセーターを重ね、グレーのチェックのパンツに着替えた少年は、大きなダイニングテーブルで朝食を取っていた。焼きたてでまだ温かい、ふわふわのバゲット。湯気の立ち上る具沢山のミネストローネ。色とりどりの野菜によく合うオニオンドレッシング。  同じくテーブルを囲んでいるのは、少年の両親と五つ上の高校生の姉、三つ上の中学生の兄だ。日曜日である今日、学校は休み。 「今日の予定は?」  少年の父は、代々続く大病院を経営している。寝る間もないほど忙しいことが常で、ほとんど家にいないが、今日は少しばかりゆっくりしていられるようだ。 「私は友人のバースデイパーティに。でも、この雪ですから……そろそろ連絡が来ると思いますわ」 「危ないからよしておきなさい。道中、何があるかわかりませんもの。電話はきちんとするのですよ」 「ええ、わかりました」  姉が予定を言えば、父にぴしゃりと止められる。もっともな指摘であったので、姉は素直に頷いた。 「俺は勉強、です」 「お前ももうすぐ受験か。一族の恥とならぬよう、しっかり励みなさい」 「はい」  兄は気乗りしない様子だ。毎日毎日勉強漬けでは疲れもするだろう。第一志望校の試験日までは一ヶ月を切っている。いくら勉強ができても、本番でその力が発揮できなければ元も子もない。雪が降るほど寒いのだから。兄は神妙に頷く。 「それで?」 「ええ、と」  促され、少年はちらりと外を見る。一面を銀世界へと変えた雪は、未だ降り続いていた。 「ああ、あの子と一緒にお外で遊んでらっしゃいな」 「雪像なんてどうだ?」 「お前に芸術センスは……そうね、子どもらしくていいのではなくて?」 「さぞ前衛的なものになるだろうな」 「ひどい!」  ミネストローネを掬っていたスプーンを握る手を机に叩きつけて、少年は盛大にむくれて見せる。温かいはずのバケットは、いつの間にか冷え切ってしまっていた。

そんなやりとりから数十分後。むくれていた少年はダウンジャケットに防水パンツ、ブーツ、ニット帽に手袋と完璧な姿で、中庭に立っていた。 「雪ですね!」 「ああ、雪だな」  少年よりも先に中庭にいた幼子が、少年が来たことに気付いて大きく手を振る。側にゆっくりと歩いて行き、少年は感嘆の声に同意した。 「ぼく、こんなにたくさんの雪、はじめてです!」 「ああ、僕もだ」  初めての雪に大はしゃぎで駆け回っては、パッと振り返って満面の笑みを浮かべる幼子は、そっと掬った雪を宙に投げ上げる。 「雪って、こんなに冷たいんですね!」 「ああ、冷たいな」  じっとしていることで少しばかり冷えて来た身体を動かそうと、少年は同じように雪をすくって幼子に向かってばらまく。 「あ! なにするんですか!」 「いいだろ?」 「もう、ぼくだって……こうです!」  雪をかけあい、避けながら走り回り、同時に足を取られて雪に突っ込む。きゃらきゃらとふたりして笑いながら身を起こし、互いの雪を払いあった。 「雪、たのしいですね!」 「ああ、そうだな」 「ぼく、かまくらをつくってみたいです!」 「ああ、そうだな……ん?」 「おっきなかまくら、いっしょにつくりましょうね!」  流れのままに言質を取られた少年は、それもまた楽しそうだ、と頷く。全身で喜びを表現する輝く笑顔に太刀打ちできる者はいなかった。

しばらくはふたりで雪山づくりに勤しんでいたが、そう大きなものができるわけもなく、早々に根を上げて、この時間に余裕のある大人の手を借りることにした。普段からあまり頼ろうとしない子どもたちの窺うような顔と可愛らしい頼みに、大人たちはふたつ返事で了承する。想像以上の重労働に、やめておけばよかった、と思いながらも、結局は彼らも、その「お願い」が嬉しかったのだ。  小さな雪山に水をかけて固めながら、徐々に大きくしていく。大人たちの手を借りたそれは、あっという間に大きくなった。小さな手が一生懸命に雪を山に押し付けて固める姿は、大人たちのやる気を出させた。  そうこうしているうちに雪山は大人たちの身長よりも高く大きくなった。固める作業の傍、子どもたちは使用人の誰かが持ってきたソリに乗って何度となく雪山を滑り降り、あるときは転げ落ちて怪我をするのではないか、と大人たちの肝を冷やした。  そうして雪山でひとしきり遊んでいれば昼時になり、子どもたちはいったん昼食へと屋内へ引き上げていく。温かな室内で温かな食事を取りながら、雪山の成果を身振り手振りで姉兄に伝えた。父母はすでに仕事に出たらしい。ダイニングに顔を出すことは終ぞなかった。  昼食で一時間ほど放置した雪山は、冷えて硬度を増していた。一晩も置けば十分なほど固くなるだろうが、穴を開けても崩れない程度にはなっているだろう。  雪の壁が薄くなり過ぎないよう、木の枝を刺してガイドにしながら慎重に掘り進めていく。崩れては危ないから、と子どもたちは穴を開ける作業からは遠ざけられ、手の空いている使用人に教わりながら、小さな雪うさぎの作り方を教わっていた。 「うさぎさん、ですか?」 「ええ、かわいらしいでしょう?」 「僕、おっきい雪だるまがいい」 「ばあやは、大きな雪玉をふたつ重ねるのが大変なんです。雪だるまは少し小さいものにしましょうね」  少年は不承不承に頷く。彼女がこの秋にぎっくり腰でしばらく療養を取っていたのを知っていたので、確かに大きな雪玉を重ねるのは大変だと思ったのだった。頼りになる若い男性の使用人たちはかまくらの製作にかかりきりとなっていたので、依頼した身としては、重ねて我儘を言うのも憚られた。 「ぼく、うさぎさんの耳をさがしてきます!」 「じゃあ、僕は雪だるまの手を探してくる」 「いっしょに行きましょう!」 「ああ」  仲良く手を取って雪のつもる中庭を駆けていく。あちらに止まってはしゃがみこんで何かを拾い、こちらに止まっては手を伸ばして葉をもぐ。そうしてふたりで顔を付き合わせ、互いに見つけたものを見せては笑いあう。  ひととおり目当てのものが見つかったのか、ふたりは頷きあって駆け戻ってきた。 「見てください! これ、うさぎさんの耳にぴったりですよ!」 「これ、雪だるまの手につけたらカッコいいと思うんだ」  どうだ、と競うように見せ合う様子に、老婆はにっこりと微笑んだ。 「どちらも、とても素敵なものになるでしょう。なんといっても、ふたりで作るのですから。ねえ?」  その言葉に顔を見合わせた子どもたちは破顔して、うきうきとそれぞれのものを作り始めた。

あっという間に時間は過ぎ、八つ時となった。その頃にはかまくらも無事に完成し、その周りに子どもたちが作った雪だるまが二体と、雪うさぎが十羽、身を寄せ合うように並べられていた。  気を利かせた使用人が小さな椅子と火鉢を持ち込み、予定が流れた姉と勉強の息抜きにと兄を連れてきた。外の寒さに文句を言っていたふたりも、かまくらの大きさと中の想像以上の暖かさに驚いている。 「かまくらって、思っていたよりもずっと温かいのね」 「俺もビックリした。勉強しなきゃなんねえのに、って思ったけど、こういうのもたまにはいいな」 「姉様も兄様も、かまくらって入ったことないの?」  姉兄の会話に驚いたように、少年が問いかけた。 「スキーに行ったことはあるけれど、スキー場にかまくらなんてないもの。初めて入ったわ」 「俺も俺も。こんなでっかいの、よく作ったな」 「みんなが頑張ってくれたんだよ! な?」 「はい! ぼくたちもお手伝いしました!」  盛り上がっているところに、お待ちかねのお八つが届けられる。真っ白く湯気が立ち上り、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。よく煮込まれた汁粉だ。 「わあ、おいしそう!」 「こう寒いところにぴったりだな」 「姉様、はやく食べたいです!」 「ちょっと待ってね」  わくわくとした様子で身を乗り出し、少年は鍋の中を覗き込む。火傷しないよう言い添えられて渡された椀は、食欲をそそった。最後に姉が自身の分をよそい終え、仲良く食べ始める。  柔らかく丁寧に煮込まれた小豆が、口の中で砂糖の甘さと相成ってほろりと溶ける。少し焼けた餅は、汁粉の中でよく伸び、姉弟がどれだけ長く伸ばせるかを競い合った。 「そういえば、入り口の雪だるまも雪うさぎも、ずいぶんかわいらしいのね」 「頑張ったもんな」 「はい!」  姉の言葉に、ふたりはくふくふと笑いながら頷く。誇らしげな顔で、秘密を共有するかのように。 「うさぎはたくさんいたけど、雪だるまはふたつだけだったな」 「うん。大きい方が父様で、小さい方が母様なんだ」 「うさぎさんは、みなさまとぼくたちですよ!」  ね、と笑いあうふたりに頬を緩ませ、姉と兄はありがとう、と口にする。小さな入り口から見える小さな家族たちは、雪に負けないように身を寄せ合っているように見えた。  笑いながら食べていればあっという間に鍋は空になる。子どもたちは仲良く屋敷へ戻っていった。用意のいい使用人たちによって焚かれていた湯を浴び、寒さで縮こまった身体を温める。そうして、またそれぞれの部屋へと戻って行った。 「雪、楽しかったですね」 「ああ、そうだな」  少年は、朝から全開ではしゃぎまわったせいか、今にも瞼を閉じそうな幼子の手を引いて自室に戻ってきた。そのままふたりでベッドの中に潜り込む。 「あしたも、ありますよね?」 「うん……」 「ゆき、つめたかったですね」 「うん……くっつけば、あったかいよ」  温かく、柔らかな布団の中、心休まる互いの体温に、ゆるゆると意識は微睡んでいく。

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大きな扉をノックする。短く応えがあってから、その大きな扉が開かれた。中には大きな木製の机。その前にある大きな椅子に埋もれるように腰掛けた男が、黙々と書類を捌いていた。  ひと声かけて部屋に入った男は皺一つない黒いスーツに身を包んでいる。扉の前で優雅に一礼すると、溢れんばかりの書類の山とティーセットの乗ったキッチンワゴンを押して入室した。  書類を捌く男が、呆れたように溜息をつく。 「なんだ、その量は」 「おかわり、ですね」  その山を容赦なく未決裁の箱に入れ、書類の脇に追いやられているカップを下げる。 「これでは息抜きもできやしない」 「出張前後は仕方ありませんね」  そう言って、カップにアールグレイを丁寧に入れていく。その脇に、うさぎを模した角砂糖がふたつ。 「……ああ、雪か」  男は、窓の外に目をやった。ひらりひらり、軽やかに雪が舞っている。