遠く、天地を裂くやうな雷光が、春の荒れた海に幾度となく降り注いでゐる。遠く忘れてしまつてゐた神の畏敬とも云ふべき姿に、人々は只々、祈りを捧げた。
久し振りに派手に勝つた。溫かい懷を摩りながら、男は滿足氣に頷く。あはや身包み剥かれるかと云ふ所での逆轉勝利。此れが快しと云はず、何を云ふ。 然て、此の金は次の博打に使ふか女を買ふか。等と考へていた所へ、以前聞いた話が頭を過る。曰く、箱根の湯は大層身體に良いらしい。金はある。時閒もある。と來れば、最早行かぬと云ふ選擇肢はない。つい先日國府津から小田原迄の鐵道工事が完了したとかで、東京から小田原迄は東海道線、そこから小田原電氣鐵道に乘り換へれば東京から箱根まで半日もかからない。 新聞で小田原驛の開業を派手に報じてゐたのも記憶に新しい。ならば、とあまりない荷物を纏め、切符を買ひ込み列車に飛び乘つた。 車內には、樣々な客が乘り合はせてゐる。男の樣に獨り者も居れば、學生だらうか、友人同士や連れ合ひ、親子の姿も見掛けた。 車窻から移り變はつて行く景色を見、箱根で何をするかを考へる。湯治も良いが、折角の旅行なのだ。何か土產話にでもなりさうなものでも有れば良いが、それは後々考へれば良いことだ。 何とは無しに其處此處から聞こえる話に耳を傾けてゐると、一等面白さうな話が飛び込んで來た。 「すまないが、その話、詳しく聞かせてもらへないだらうか」 突然會話に割り込んで來た男に驚いたのか、其の餘りに見窄らしい樣に驚いたのか。靑年達は男を訝し氣に見てゐたが、引く氣がないのを早々に悟ると、先程していた噂話について詳しく敎へて吳れた。 「何でも、海沿ひの何處かに『不夜の村』と云ふ場所が有るさうだ」 「運良く辿り着くことが出來れば、夢の樣な歡待に逢ふらしい」 「まァ、天下の東海道でそんな村が有れば、忽ち評判になつてゐさうだが」 「そんな村は聞いたことが無いのだから、結局は只の噂であらう」 靑年たちはさう云つてなんてことのないやうに手を振つた。それ以上のことは知らないのであらう。 「此れは良いことを聞いた。然し、君達は其の話を何處で聞いたんだい?」 「嗚呼、此の食堂車で給仕をして居る給仕の娘だよ。長いこと乘つてゐるから、と色々な話を聞かせてもらつたのさ」 その言葉に、男は目を丸くする。東京から出發して未だ一時閒も經つてゐない。樣々な噂話を給仕とするほどの時閒もないだらうに、と。 「私達は、これから廣島迄歸る所なんですよ」 「行きにそんな話を聞いたものですから、歸りがけに海邊にその村が見えないものか、と」 「成程。その給仕の娘はこの列車に乘つてゐるのかい?」 「殘念ながら。先程食堂車で聞いてみたのですが、どうもあの後辭めてしまつたやうで。やはり長距離を行つたり來たりするのは大變だらうね」 靑年たちはさう云つて、しみじみと頷き合つた。自分達の樣な男でさへ、東京から廣島迄行くのは大變な旅路なのだから、然もありなん。 「海邊の村だなんて、それこそ星の數だらうに。場所の檢討はついてゐるのかい?」 「はて。相模の海、とだけは聞いてゐますがね」 「然し、海邊の村での豪勢な歡待だなんて、浦島でもなからうに」 「浦島は丹後だらう。相模には掠りもしないさ」 「其れもさうだ」 男はしたり顏で頷く。浦島太郞と云へば、尋常小學校の敎科書に載つてゐる爲に誰もが知る所である。 「然し浦島と云へば、相模の海にも龍神傳說くらゐありさうなものだがな」 「確かに、龍神樣は神出鬼沒であられるからな」 しばらく談笑をした後、男はふたりの靑年と別れ、隣の車輛の空席に腰を下ろす。窻の外に廣がる海邊の景色を眺めながら、此の旅は隨分と面白くなりさうだ、と期待に胸を膨らませた。
* * *
遠くで、雷の音が響く。時折見える雷光と、直後に響く地を震わせる轟音が、その距離の近さを示していた。 細く振り続ける雨の中、鉄筋剥き出しの立体駐車場の屋上に止まっている車はない。 ひとよりも大きな身体を膝を抱えて背を小さく丸め、かけている眼鏡が濡れるのも厭わずに空を見上げる男の表情はどこか恍惚としている。 「きれい、だなあ」 雨音に紛れて感嘆の声が漏れる。この立体駐車場は周辺の木々よりも大きい。高い建物も少なくはないが、非常に見晴らしが良いことに変わりはない。花火大会でもあろうものなら、この屋上が花火会場に様変わりする程度には。今回の目当てのものは丁度その間で起きているため、男の視界を遮るものはといえば、落下防止の鉄柵くらいのものである。 着の身着のまま、ぼう、と空を眺めていた男の耳に、足音が届く。どこか急いた調子でありながら、音はごく小さい。意識の片隅でその人物に当たりをつけたのだろう、少し強張った肩の力が抜けたようだった。 感覚の短い足音は、少しずつ近づいて来る。男は膝を抱えたまま、注意を払うことなく変わらず宙を走る雷光を眺めていた。 「……何やってんだ、こんなところで」 「…………」 やってきたのは、すらりとした長身の男だった。髪色と同様に片手にさした濃い紫色の傘も意味がないほどに全身雨に濡れてしまっている。 「ほら、帰るぞ」 雷鳴が断続的に響く。鉄筋剥き出しのこんなところに居たら危険極まりない。例え直撃を免れたとしても、建物に雷が落ちた時点で黒焦げの死体がふたつ出来上がるだけだ。 「……雷が」 「あ?」 「きれいだなあ、って」 膝を抱える男の声は、静まり返ったようにぴたりと止んだ轟音の隙間に響く。立ち上がる気配のない男の腕を掴み上げながら、その視界を遮るように傘をさしかけた。 「あ……」 名残惜しそうな声を上げ、男はようやく傘の持ち主に視線を遣った。 「確かにきれいなのは認めるがな、家で見ろ。ここは危ないだろ」 「……ん」 支えられるようにして立った男の背は、傘を持つ男とほぼ変わらない。わざとなのか往来の性質なのか、その背は小さく丸められていた。 促され、鉄筋の床を時折滑ってバランスを崩しながら、引きずられるようにして駐車場を下りていく。あっという間に天井に遮られ、骨組みに遮られながらも、その光は男の目を惹きつけてやまない。 「早くしろ」 簡易に敷かれた鉄板は、下階へ行っても雨を完全に凌げるほどではないため、変わらず傘を手放すことはできない。一刻も早く、この地雷原の上でタップダンスを踊っているような状況から抜け出さねば、という焦りは、引きずられる男の状況を顧みることなく、口から零れる声に耳を傾けることなく、ただひたすら足を下へ下へと動かしていた。
ようやく家へ戻り、あたたかなタオルで身体から雫を拭い去ることができた。風呂の用意をしている間に毛布を被り、茶を啜る。人心地着いたところで、先ほどの質問が再度繰り返された。 「それで、お前。あんなところで何してたんだ」 「何も」 「は?」 男の口からは間抜けな声が漏れた。大きな男に唐突な自傷癖もあったが、それは都度「死」への欲求があることを知っていたからだ。 「そうだな……うん。雷が、きれいだったから」 ふ、と窓の外に再び視線が移される。雷の音は未だ鳴りやむ気配もない。憧憬の混じったそれに、男はカーテンをぴしゃりと閉めた。 「そうか」 「うん……あのね。雷の話………今までよくわからなかったんだけれど」 「ああ」 「神様が鳴らすものなんだなあ、って」 「そうか」 「うん。神様の話だよ」 「……わかった。探しておく」 「探さなくていいからね」 「見つからなかったらな」 「…………うん?」 違和感に首を傾げながら、男はあいまいに頷く。そうして小説雑誌に投稿された第一話は、男の新たな切り口として世に広まったのである。