目の前の白と黒の鍵盤を叩けば、ぽろんぽろんと音が出る。今日は、■■■の音だけじゃない。自分の音を出すだけでいっぱいいっぱいな■■■に合わせるように、隣から伸びる二本の腕が、支えるように、包みむように、優しいメロディーを紡いでいる。  ひとりで練習しているときよりも、お兄ちゃんに合わせるようにメロディーを紡ぐのは、ずうっと難しい。でも、ふたりで出す音が部屋いっぱいに響くのが楽しい。お兄ちゃんと一緒に曲を作っているのはもっと楽しい。ひとりでなくて、ふたりで弾くと全然違う曲になったような気もする。音が増えるってすごい。お兄ちゃんと一緒なら、もっとすごいことができる気がする。  もうすぐ、この曲が終わる。最後の最後で一番盛り上がるところだ。何十回も何百回も練習しても嫌にならない、大好きなメロディー。  半分ずつ座るピアノ椅子。隣から感じる、お兄ちゃんのあたたかさ。音に合わせてさらさらと揺れる金の髪。見上げれば、にっこりと笑ってくれる。どこかふわふわとした気持ちになりながら、曲の終わりに向かって指を動かしていく。  いやだな。寂しいな。終わってほしくないな。  楽しいはずなのに、曲が終わってしまうことに悲しい気分になりながら、最後の音を一緒に弾こうと、鍵盤から大きく手を浮かせた。それから、お兄ちゃんと顔を見合わせて手を下ろす。  きれいに重なったハーモニーが、部屋いっぱいにいつまでも響いていた。

* * *

タクシーの窓から、国道という割に狭い東京の街並みを眺める。小さな店やマンション、幼稚園に学校、住宅街。いつしかその家々も、集合住宅よりも一軒家の数が増えてきた。目的地はおそらくこのあたりだろう。 「うわ」  何やら手帳をパラパラとめくっていた樋田が、嫌そうな声を上げた。白石が振り返り、声をかける。 「……あの本、明日全国放送されるらしいっすよ」 「……は?」  怪訝な声を上げたと同時に、タクシーが滑らかに停止した。白石が料金を支払う。先ほどの話を掘り下げようと車を降りた樋田を見やると、頷きが返ってきた。さっさと中に入るべきか。  目の前の洋館を見上げた。通りからでさえ、焼け落ちた部分を見ることができる。木の焦げる臭いがわずかに鼻をかすめた。世田谷区成城。豪邸が軒を連ねる高級住宅街の一角に、いつ倒壊してもおかしくないような状態の建物を五年も放置しておくとは、よく行政指導が入らなかったものだ。  ぞろぞろとタクシーから降り立つ一見して繋がりの見えない面々に、向かいの家の玄関先で打ち水をしていた女性がその手を止めて興味深そうに声をかけてきた。 「あなたたち、こんなところに何か用?」 「ええ、この家に少し」 「焼けてだいぶ経つわよ。もう五年になるかしら……もしかして、雑誌の記者さん? 当時もたくさん人が来たのよねえ」 「今、改めて当時のことを調べているんですよ。奥さんは火事になった原因はご存知ですか?」  しみじみと当時の話を振り返る姿に、樋田が手帳を開いて問いかけた。どうやら女性は架倉邸の向かいの家でずいぶんと長いこと家政婦として勤めているらしい。住み込みではないため、火事のあった時分に立ち会ったわけではなかったそうだが、あちらこちらで噂話を聞いているとか。 「そうねえ……火元は旦那さんの書斎だったみたいだけれど、原因はよくわかっていないって聞いたわ」  火事が起きるちょっと前に、娘さんが学校の遠足で長野に行った時に大きな地震に巻き込まれてバスが崖から落ちちゃって。どうも打ちどころが悪くて、植物状態になってしまったそうなの。それから旦那さんの様子がちょっと変だったんだけれど……。  ここだけの話、焼け跡から黒魔術やら悪魔の像だとか本だとか、とにかく胡散臭いものがたくさん出てきたんですって! だから、娘さんを生き返らせるために怪しい儀式をしてる最中に家を燃やしちゃった、っていう噂と、娘さんを失ったも同然の悲しみを癒してくれた不倫相手と心中した、っていう噂がまことしやかに流れているわ。あなたはどっちだと思う? 「確かに、夜な夜な二人っきりで怪しい儀式をしてただけってのは無理がありそうですねえ」  事件の内容を捲し立てる女性に苦笑しながら樋田が相槌を打てば、そうでしょう、と興奮したような同意が返ってきた。 「それにしても、火事があってから五年も経つのに、どうしてこのままにしているか知っていますか?」 「さあねえ。当時は息子さんも中学生くらいだったし、勝手に処分するわけにもいかなかったんじゃないかしら。娘さんはほら、今もそのまま入院してるって話だし」  白石の疑問は最もだが、どうやら誰も知らないらしい。更地にするくらいはしても良さそうなものだが。見られて不都合のあるものでもあったのだろうか。帯紙が隠しておきたいものをこの状態の架倉邸に残す、ということは考え難い。息子の希望か? 中学生であるなら、親に隠しておきたい秘密のひとつやふたつありそうだが、両親を失った火災現場を残してまで隠しておきたいものだろうか。  「そういえば、息子さんはどちらにいらっしゃるかご存知ですか? 家を見に来ることはあるのでしょうか」 「どうかしら。そういう話は聞いていないけれど。この辺りは高校も大学もあるからねえ……」  少なくとも、噂でも話は聞かないらしい。確かに、同年代に紛れてしまえばわからないのも無理はない。井戸端会議で話題に上ることや、下校時刻に防犯も兼ねて意識的に玄関先の掃除をすることはあるだろうが、全ての子どもの顔に見覚えがあるということにはならないだろう。 「確かに、同年代が多いとわからないですよね。制服を着ている高校生はともかく、大学生は授業時間もまちまちでしょうし」 「ところで、不倫相手ってどんな人だったんですか?」 「ああ、架倉さんの奥さん、絵本作家をしてらしたんだけどね、タイトルは覚えていないんだけれど、大ヒットした絵本があるのよ。仲の良かったご近所の女の子にデザインを考えてもらったらしくて。その子が不倫相手なんじゃないかって噂は流れていたわね」 「へえ。よくやりますねえ」 「記者さんたちも、何か新しくわかったことがあったらぜひ教えてちょうだいね」 「わかると良いんですけどね。じゃあ、俺たちはそろそろ架倉さん宅にお邪魔してみます」 「気をつけてね」  そうして、女性が見送る中、廃屋の名に相応しい、往時の姿がわずかに残る洋館に向き直る。正面から見て左側は焼け落ちてしまい、基礎がむき出しになっている状態。右側は当時の面影を残している。ひとまず右側の方へ足を踏み入れた。 「そういえば、『亞書』が全国放送されるってどういうことですか?」 「はあ?」  タクシーを降りかけに樋田が言っていたことについて言及するなら今しかないだろう。それに聞いていなかった月兎耳が素っ頓狂な声を上げる。大して中身を読んだわけじゃないんすけど。そう前置きをして、樋田は栞の病室に残されていた上着のポケットから拝借したという茶色い革のカバーがかけられた手帳を開いて見せてきた。ちょうど今日の欄に「テレビ取材」、明日の欄に「オンエア」と記入されている。 「確かにオンエアってあるけど、内容までは書いてないよね?」 「いやあこの手帳、日記も兼ねてるみたいでね。『亞書』について書いてるんで」  なるほど。納得したくはないが、するしかない。間違いなく、手帳の持ち主は『亞書』を制作している人物なのだろう。  話しながら焼け残った右側を見て回る。とはいえ、上階への階段は天井ごと崩壊していて、二階に上がることはできない。れんが造りの暖炉が黒く煤けている。その部屋の中央。雨風に長年晒されたせいか、朽ちかけたピアノが鎮座している。  一際目を引くそれへ一歩踏み出したとき、突然視界が闇に閉ざされる。後ろからやけに白い手のようなものが伸びてきたことだけは認識できた。ひとつ、ふたつ、みっつ。すぐに視界が明るくなる。優美な洋館。仲良く並んで座る兄妹。共に紡ぐメロディー。  兄妹が弾いているピアノ、煉瓦造りの暖炉。一歩踏み出した姿勢のまま、その光景を見ていた。そうして確信する。これは、過去の架倉邸だ。近づこうとさらに一歩踏み出す。相も変わらず、ピアノは何百回と再生されて音の飛んだレコードのようで、視界は質の悪いカメラを使って撮影されたフィルム映像のようだった。  曲が最後のサビを迎えた。兄妹が最後の音を一緒に弾こうと、鍵盤から大きく手を浮かせ、顔を見合わせて手を下ろす。瞬間。ピアノの脚がひしゃげる。支えを失い、鍵盤が落ちる。棚板が地面に叩きつけられる。衝撃でハンマーがめちゃくちゃに弦を叩く。尾を引く不協和音が部屋中の空気を震わせる。反響して不快さの増す残響が直接脳内に叩き込まれたとき、視界は一変していた。  目の前に落ちたピアノ。鳴り響く不協和音。舞い上がる土煙。煤けた暖炉。割れた窓。  先ほどまでいた、焼け残った洋館。そこに、呆然と立ち尽くしていた。 「ええと……大丈夫、ですか?」 「……今のは」  尾を引く残響が少しずつ小さくなっていくのと同時に、は、と息をつく。腹の底に響く不協和音が、胸に何かが詰まったような不快感をもたらしていた。声をかける花布に頷き、立ち尽くす面々を見やる。突然なった轟音に眉をしかめる月兎耳、驚いた様子の花布。どことなく顔色の悪い樋田。真っ青な顔で大きく息を吐こうとして、ピアノが崩れた衝撃で舞う埃に咳き込む白石。それに慌てて花布が背をさする。咳が治まるころには、その顔色も多少はまともになっていた。 「まったく、散々だなあ」 「見ました?」 「ああ、おたくも?」 「はい」 「ちょっとちょっと、情報共有はちゃんとしてくれないと困るんですけど?」  面倒そうに突っ込む月兎耳に、樋田がこの空間で「視た」光景を話す。過去の洋館。ピアノの連弾をする兄妹。轟音とともに途切れた映像。崩れ落ちたピアノ。まるで同じだ。白石も同じ光景を見たようで、しきりに頷いている。  その間に部屋を検めてみるものの、調度品の類は焼け落ちたのか消火作業の過程で壊れたのか、はたまた捜査か火事場泥棒か、目ぼしいものが残っている様子はない。  もう一方、損壊のひどい正面から左側の部分は、右側に比べほぼ全てが焼けてわずかな骨組みしか残っていない。焼けた角材と焦げたれんがが大量に床に落ちており、少し歩いただけで何かがパラパラと崩れる音がする。 「うおっ……あっぶね」  月兎耳の声と何かが地面に落ちる音。何事かと見やれば、どうやら足元の小石を跳ね上げてしまったらしい。不注意とはいえ、石が顔面目掛けて飛んできたらさぞ驚くだろう。妙なことでけが人が増えなくて良かった、と言うべきか。 「あれ、これ、足跡と……何だろう、台車か何かかな」  白石が、入口から裏手に向かい、何か台車のようなものが通った跡と大量の足跡が付いていることに気付いた。気になって追ってみるものの、その先は石畳。雨で流されてしまったらしい泥汚れは、その先の追跡を不可能としていた。 「どこに向かってるんすかね」 「あー、こういうのっていかにもな隠し部屋がありそうなんだけど……さすがに厳しいか」 「割合最近つけられたものみたいだから、そのうちまた来そうな気もするけれど」 「よーくわかりますね。さっすが。よ、名探偵」 「あはは、ありがとう。そんなに大層なものじゃないけどね」  日は延びているとはいえ、暗くなってきた時分。周囲を照らしながら手がかりを捜索するのは、この廃墟では非効率的だ。小腹も空いてきたことだし、と今日の探索はここで切り上げることとする。 「花布ちゃん、何食べたい?」 「私知ってますよ。お昼に、今日は焼き肉って言ってましたよね!」  すごいな、と素直に思った。昼間のあの惨事から一日も経っていないのだ。慣れるまでは手術の後に肉を忌避する研修医など山ほどいるのだが。肝が座っているのか、あの光景を脳が無意識に記憶から呼び出さないようにしているのか。後者の方が健全ではあるが、肉を見てPTSDを起こさなければ良いが。まあ、焼肉に行くというのであれば、一応隣の席に座っておくことにしよう。カウンセリングもどきならできるのではないだろうか……焼肉に行く時点でどうかと思うが、本人のリクエストなのだから、まあ、その時はその時だ。

* * *

十分ほど歩けば、学園都市ということも相まって、様々な店が立ち並ぶ。そんな中に混じって学習塾の看板が数多いのは、この土地ならではということもあるのだろう。 「こっち。オレのオススメ」  月兎耳の案内で、駅を通って南口へ。そこから住宅街の角にあるカフェと外階段の間にある狭い道を入れば、「焼肉 SANGO」の暖簾とともに地下への階段が現れた。まるで隠れ家のようでおもしろい。  階段を下りれば、入り口のガラス障子風の引き戸まで、小道のように飛び石や石灯籠が置かれており、古民家風になっている。戸を開ければ、想像以上に広い空間が現れた。黒く塗られた板張りの床に、簾で区切られた空間。炭と肉の焼けるいい匂いが鼻をくすぐる。 「わあ、隠れた名店、って感じだね」 「花布さん、奥どうぞ」 「あ、はい。ありがとうございます」  店員に案内されて付いて行った半個室のような部屋に、花布を奥へやり、その隣に座る。樋田が続いて隣に座った。向かいには白石。最後に座った月兎耳から、この座席配置に不満そうな視線を寄越されたものの、肩を竦めてメニューを開く。 「花布ちゃん、何飲む?」 「ええと……カシスオレンジにしようと思います」 「オッケー。食べたいものは?」 「え、ええ? ええと……カルビが好きです!」 「カルビ美味しいよね、オレも好き。サラダ食べる?」 「良いんですか?」 「遠慮しないで。ここ、肉もサラダもウマいから……すみませーん」  俺たちには聞いてくれないの、なんて声は聞こえなかったかのように店員を呼んだ月兎耳は、そのまま注文を告げていく。花布のカシスオレンジ、自身の生ビール。それに声を上げてドリンクの注文をねじ込む。その後、リクエストのあったサラダに始まり、カルビにタン、ハラミ、ホルモン、偶然残っていたミスジ。 「それにしても、今日は本当に色々あったねえ」  しみじみとした声に頷く。国会図書館で知り合った『亞書』を巡る記憶喪失者を含めた繋がりのない面々。五年前の火災に隠された意味ありげなゴシップ記事。こっそりと貸し出された『亞書』。上がる悲鳴。破裂する頭部。様変わりした図書館。味噌の旨味と奥行きの感じられるラーメン。記憶喪失の男を送り届けた先の病院での幻視。男性の正体。脳死状態の前院長の娘。焼けた前院長邸。崩れ落ちたピアノ。中の良い兄妹。消えた足跡。  数え上げれば切りがない。それだけ濃い一日を過ごした、という証左でもある。あまり嬉しくないことに、巻き込まれた事件の調査のために、日がな一日駆けずり回る経験が少なからずある。その成れの果てが現在の自身でもあるのだが。そういう星の下に生まれた、ということで半ば無理矢理納得したフリでもしなければ、とてもではないがやっていられなかった。 「うわちょっと月兎耳くん!?」  突如上がった悲鳴に何事かと網から顔を上げれば、向かいで白石が月兎耳に迫られていた。(本人には言えないが)寄る歳波には勝てないのか、抵抗虚しくその距離はどんどんと近づいてくる。隣の花布はほとんど残っていないカシスオレンジのグラスで顔を隠しながら、視線はふたりに釘付けだ。 「待って待って待って僕おじさんだから! 君の好きな可愛い女の子じゃないんだよ素敵な奥さんがいたし君よりちょっと年下くらいの娘もいるんだからうわわわわほんとにちょっと待って待って待ってんんんっ……」 「んー……ね、へーきだって。イイでしょ……?」  残念ながら押し負けてしまった白石から漏れるくぐもった声で、覆いかぶさった月兎耳が何をしているのか容易にわかってしまう。隣に座らなくてよかった、と心底思いつつ、やりとりを見ていたせいか少しばかり焦げてしまった肉をタレと白飯でごまかして口に運ぶ。  我関せずと世話していた樋田は、放置された網にちょうど良く火が通った鶏肉を全員の皿に放り込んでいる。花布は、机の影にふたりの姿が見えなくなると、口元に手を当て、内緒話でもするかのように話しかけてきた。 「あの……月兎耳さんと白石さんって、そういう関係でらしたんですか……?」 「ぶふっ! ……うん、そうそう。だからそっとしといてあげて」 「人前で見せつけたくなるくらいおアツいんですよ」 「わ、そうなんですね」  机の下の攻防を気にせず肉を乗せていく。網に乗せた少し厚みのあるタンにじんわり熱が通っていくのがわかる。他の肉にも構いつつ、手元のウーロン茶を飲んでいれば、隣から樋田がそろそろ返した方がいいですよ、と声をかけてきた。よく見ると端が黒くなっている。  慌てて返せば、表面が焦げて真っ黒になってしまっていた。もったいないので、ゴマだれが味をごまかしてくれると信じて白飯に包んで口に運ぶ。  香ばしいゴマの風味に、マヨネーズが味をまろやかにしてくれる。そこにアクセントを加えるように、わけぎの爽やかさが鼻を抜けた。粒の立った白米は、噛めば噛むほどに甘くなるのがわかる。  そんな繊細な味を台無しにする圧倒的な苦み。そして、焦げて炭化した肉のじゃりじゃりとした不快な食感。薄切りでないからこそ、若干残っている肉の味がさらに不快感を煽る。  相当渋い顔をしていたのか、樋田が皿にカルビを数枚放り込んできた。見ただけで分かる絶妙な焼き加減は、無理やり飲み込んだ肉という名の炭よりよほど柔らかそうに見える。滴る肉汁に唾液があふれるのを感じた。  口に入れた瞬間にふわりと広がる肉の旨味を甘く引き立てるタレ。すぐに噛み切れる柔らかな肉が口内で溶けて消えたようにすら感じる。美味い。自分で焼くより数百倍いい。大人しく焼かれた肉が寄こされるのを待とう。  左右から皿に乗せられる肉を口に運んでいると、ひどく痛そうな音がする。固定されているはずの机が揺れたのは気のせいではなく、衝撃で端に置かれていたグラスが倒れた。中の水が少しばかり残っていたのがかかったのか、それとも今の音からするに盛大にどこかぶつけたのか、月兎耳がうめき声を上げながら起き上がった。 「あー、ええと、その……大丈夫ですか?」 「うんまあ……ありがとね、花布ちゃん」 「はあ……ひどい目にあった……」  まだ息の落ち着かない白石が水のこぼれてしまったグラスを起こし、無事だったビールジョッキを勢いよくあおる。汗をかき、気の抜けてしまったであろうそれに眉をしかめるものの、それ以上に脱力感が勝っているのだろう。いつものほがらかな表情を置いてどこか疲れたように皿に山と積まれた肉を黙々と消化している。 「じゃあ白石さんも復活したし、今日はお開きっすかね」  机の上から肉がなくなったところで、樋田が提案した。色々と腹がいっぱいであるため、こちらも特に反対はない。会計を済ませ(花布の分は月兎耳が出した。いっそ全員分出すべきだと思う)、大通りへと向かいながら言葉を交わす。 「うーん、明日どうするかっていうのは思いつかないんだよねえ」 「なら、何か思いついたら連絡する……っつーことで」 「わかりました。じゃあ私はお先に失礼しますね」 「ちょっと待って。花布ちゃん、送って行くよ」  月兎耳が花布を呼び止める。花布はとんでもない、とばかりに首を振っていたが、押し負けたのか口説かれたのか、連れ立って駅の方に向かって行くのが見えた。月兎耳がこちらにひら、と手を振るのに肩をすくめて見送る。 「おふたりはどうします?」 「僕はもうホテルにでも泊まろうかなあって思っているところだよ」 「ああ、ならいっそ三人で泊まりますか」 「大の男三人が?……まあ幻覚のこともあるしなぁ」  同意が取れたところで樋田に顔を向ける。この学園都市にホテルがあるとは到底思えない。案の定返ってきた返事は否。新宿まで出ればどうにでもなるだろう、とのこと。確かに、ここから新宿までは電車ですぐだ。  疲れ切った会社員に囲まれながら十五分ほど電車に揺られ、新宿へ。これから飲みにいくであろうグループやら、帰途に向けて足早に改札口へ向かう人々やらを眺めつつ、大通りを渡って少し離れた場所へ向かう。  たどり着いたビジネスホテルで空きを聞けば、平日ということもあってか、エキストラベッド付きのトリプルルームに空きがあるという。シングルの部屋を三部屋取ってもよかったのだが、万が一のことを考えて同じ部屋にしよう、というのは道中話し合っていたことだった。  順番にシャワーを浴び、コンビニで買った缶チューハイを空けながらああでもないこうでもない、と言っていると、樋田が思い出したように革のカバーのかけられた手帳を取り出した。 「そう言えばこれ、ちょっとしか読んでいないんでした」  ひらひらと振るそれは架倉邸でも見た。十中八九、前院長の息子である紡のものだ。雑誌よりも小さな手帳を男三人で頭を突き合わせて読む訳にもいかず、随分と書き込まれているらしいそれを読み込む樋田を眺めながら酒をあおる。

ピコン

携帯電話がメッセージの受信を知らせた。白石も同時に受信したようだ。手元の携帯電話を見てみれば、グループチャットにメッセージが表示されている。 『あのジャケットにあった鍵の書房、前院長の奥さんが作った絵本の製造元かもしれません』 「『イスの書房』……ねぇ」 「それは考えませんでしたね」 「なるほど。所有している可能性があるといえばそこしかないね」 『明日はそこで待ち合わせってことで』  話がまとまったものの、樋田は未だ手帳をじっくりと読み進めている。どういう内容か気になるところではあるものの、どうせロクでもないものと相場が決まっている。  白石と肴をつまみつつ話していれば、読み終わったのか、樋田が大きなため息をついて話し出した。  内容は、どうやら前院長の息子である紡の日記のようだった。帯紙から妹である栞の余命を宣告され、昔の夢を見たこと。架倉邸の火災の原因は、地下で父と姉のように思っていた人物が行っていた「儀式」に動揺し、燭台を倒してしまったこと。訪れた架倉邸に妹を救える方法が残されていたこと。  それからの試行錯誤の日々。『惡書』を帯紙に使い、殺してしまったこと。しかし、帯紙はいつの間にかいなくなっていたこと。そうしてついに、『亞書』が完成したこと。  うまくいかない『亞書』の適合者探しをするため、質を量で補おうとしたこと。噂を流し、国会図書館の納本制度を利用しようとしたものの、悪い噂が流れ始めてしまったせいで頓挫してしまったこと。  この噂を利用して、『亞書』の中身を公開することを条件にテレビの取材を受けることにしたこと。  思わずため息が漏れる。内容をまとめるのも面倒に思ったのか、樋田は手帳の写真をそのままグループチャットに流した。すぐに月兎耳からかかってきた電話に樋田が億劫そうに再度かいつまんで話をする。電話の向こうからのため息も聞こえてきそうだった。  月兎耳はどうやら警察の方で放送を止められないか、かけあってくれるらしい。圧力をかけたところで差し止めることができるかは甚だ謎だが、期待せずにおこうとは思う。 「うん、まあいろいろあったけど、明日もあるし今日は寝ちゃおう」 「そうっすね」 「おやすみなさい」  部屋の照明を落とせば、ふたりの呼吸音が聞こえる。今までの経験を思い返していれば、いつの間にか意識は落ちていった。