真っ暗な部屋で、大して面白くもないテレビ番組を流しながら、七星は物思いに耽っていた。目の前にある立派な花瓶に活けられたカーネーション。テレビ画面の光にチカチカと照らされるそれをぼう、と眺める。  カーネーション、母の愛の象徴。イタリアにいたときも、小さな子供が母親に贈っているのを見かけたことがあるし、この日本でだって「母の日」に贈る定番の花だ。正直、自分では母の日に贈り物をするだなんて考えたことはない。記憶にない母に何かをする、ということについて、考えたこともなかった。 「眠れねえのか」 「起こしてしまいましたか」 「いや、目が覚めただけだ」  静かに扉が開き、そんな声をかけられる。明瞭に響く神嵜の声とは対照的に茫洋とした七星の声音は、どこかふわふわと定まらない様子でもあった。  ローテーブルとソファの間に座り込み、肩肘をついて支えていた頬を上げ、目を瞬かせる七星の頭を神嵜はくしゃりと撫でる。そのまま奥の厨房へ歩いて行った。ガラスの小さくぶつかる音、冷蔵庫を開ける音、何かを注ぐ水音。暫くすれば、湯気の立つマグカップがひとつ、小さな音を立てて目の前に置かれていた。 「飲め」 「はい……ありがとう、ございます」  日中は暖かい日が多いとはいえ、まだ朝晩は冷え込む。両手で持ち上げたその熱さに、随分と長くここにいたことを自覚した。ひと口飲めば、温かなミルクにとろりとした蜂蜜の甘さ。ふわりと香るそれが、腹へ落ちていくことを感じる。 「あの」 「どうした」 「この花、なんですけど」 「ああ」  ひとつ頷き、先を促す。七星の後ろ、ソファにどっかりと腰かけ、活けられた花瓶に揺れる花を見て、神嵜は静かに笑う。それは、どういった経緯かは知らないが、七星がどこからか持ち帰ってきた小さな花束だった。それこそ、日ごろの感謝を込めて母へ贈るような。 「もらったんです。小学校に上がるかどうか、くらいの女の子に。俺は母親ではないけれど、いつもありがとうって。自分のお母さんにあげる練習だって。町のみんなが危なくないように頑張ってるのを知ってるよって。それで、それで……」  それきり俯いた七星の背をゆっくりと叩いてやる。こんな商売だ。そんなふうに心を砕かれるとは思ってもいなかったのだろう。ましてや小学生。花は安いものではないのだ。それを、自身の母親の分に加えて、何の関係もない、下手をすれば生命を脅かす可能性のある者にも、だなんて。 「そうか」  何か言葉をかけるのは無粋だろう。これは、七星が受け取った言葉で、気持ちだ。 「……先輩」 「なんだ」  話したことで少し落ち着いたのか、七星が顔を上げて真っ直ぐに神嵜の瞳を射抜く。以前よりもずっといい目をするようになった。そんなことを思いながら、マグカップに口をつける。 「これ、受け取ってもらえますか」 「お前なあ……」  思わず呆れた声を出してしまったのは仕方がないだろう。活けてあった花瓶からカーネーションを一本取り出し、神嵜に差し出したのだ。 「……俺はお前の母親になった気はこれっぽっちもねえんだが……しょうがねえから受け取ってやるよ」 「はい、ありがとうございます」  そう告げて受け取れば、あんまり七星が嬉しそうに笑うものだから、神嵜は茎から滴る水滴も気にせず笑う。本当に、いい顔をするようになった。 「うし、じゃあもうそれ飲んで寝ろよ」 「はい。……ありがとうございます、先輩」  もう一度七星の頭をぐしゃぐしゃとかき回し、マグカップの中身を飲み干して、神嵜は腰を上げる。それを押し留めて空のカップを受け取った。 「おやすみなさい、先輩」  小さくつぶやいたその言葉は、上げられた手が答えだ。その片手には、七星の渡した真っ赤なカーネーション。

誰もいなくなった部屋で、七星はひとり微笑む。少女からもらった一本のカーネーション。その帰りに、七星はもう一本カーネーションを買い足していた。あの子からもらったカーネーションを渡すことはできないけれど、自分なりの感謝を込めて。 「カーネーションって、たくさん花言葉があるんだな。俺、全然知らなかった」  花瓶に揺れる花へ、静かに語りかける。机に腕を乗せ、それを枕にしながら、七星は花を見上げた。 「赤いカーネーションの花言葉は『母の愛』と、『尊敬』、それから……『熱烈な愛』なんだって。俺は、あの人に、あの子と同じように感謝と尊敬の気持ち、渡せたかな」  きっと、先輩はそんなこと知らないし、花言葉なんて興味もないだろうけど。  それでも、渡せたことが嬉しいのだ。すぐに枯れてしまう花だけれど、こうして時々、形のあるものを渡すのだって悪くないだろう。  あの子からもらったこの花は、枯れてしまう前に押し花にでもしてみようか。ずっと大切に、その心を忘れないように。  マグカップを軽くゆすいで、小さく話し続けていたテレビを消す。 「また、明日ね。ありがとう」  真っ暗になった部屋で、カーネーションが一輪、応えるように揺れた。