チャイムを押しても反応はない。確か、今日は家にいる言っていたような気がするのだけれど。おそらく忘れているのか、それとも物語の世界に耽っているかのどちらかだろう。もしかすると、まだ寝ているかもしれない。  仕方なしに、鞄から合鍵を取り出す。実花がひとり暮らしを始めることになったのとほぼ同時に渡された。以来、夢中になると平気で食を抜く実花に何かと差し入れをしている。この戸の鍵を開けるのも慣れたものだ。  万が一、世界に没頭していた場合、そこから急に引き離していいことはあまりない。それは分かっているので、なるだけ音を立てないようにゆっくりと戸を開ける。公認されているはずなのに、後ろめたいことをしている気になって、いつも無意味に身を竦めてしまう。  鍵をかけ、今の扉をそろりと開ければ案の定。フローリングにぺったりと座り込み、お気に入りのビーズクッションを抱え、下敷きにした雑誌の上に敷いた紙に一心不乱に 文字を連ねて行く。窓に向かって熱心に世界を創造するのはいいことだが、その格好はいただけない。  暑かったのか、窓は全開。隠すものはない、とばかりに白いレースのカーテンは半分開いている。寝そべる実花はというと、丈が短いのか、はたまたはだけているだけなのか判断に困るふんわりとしたワンピースの裾から、その白く柔らかそうな肌が露わになっていた。ゆるく波打つ柔らかな髪を無造作に床に流し、その隙間から、ワンピースの肩紐が外れて、二の腕で影を落としている。  特大の溜息をどうにか飲み込み、持って来た菓子を珍しく花が活けられているローテーブルに置き、書き物の邪魔にならないように大きく回ってカーテンを勢いよく閉める。気付いた様子のない実花を視界に入れないようにして、勝手知ったる、とばかりにキッチンのある廊下へ戻り、ケトルに水を入れた。  湯を沸かしている間に皿を取り出し、持参した菓子を盛り付けていく。鮮やかなペーパーナプキンを敷いたのはもはや意地だ。小さなスフレカップに持参したサワークリームとイチゴジャム。ティースプーンを添えればいいだろう。  ケトルが湯沸かし完了とともに静かになる。ポットに湯を入れ、戸棚を開けて茶葉を探す。セイロンはあっただろうか。目当ての瓶を見つけた。ヌワラエリア。ついでに隣に置いてある砂時計も取り出しておく。減り方を見るに、開封後間もないようだ。貰い物かもしれない。  ポットの湯を捨て、ティースプーンに山盛り二杯分。そこへ、ケトルから湯を注ぐ。砂時計をひっくり返し、茶葉を蒸らす間に、カップも湯で温めた。  ここまでしても気付かない実花にひとつ溜息。側のローテーブルに茶菓子を置いてその様を肩肘付いて眺める。何が楽しいのか、ぱたぱたと脚を動かす様は子どものようだ。その度に、ワンピースの裾がふわりふわりと揺れ動く。  ぼんやりと眺めていれば詰まったのかその手が止まり、その頭がわずかに上向く。集中力が途切れたのを見て、傍に放り投げられていたパーカーをその背中に投げつけた。 「ひゃあ!?」 「……実花、ごめんね?」 「珠里! 私こそごめんなさい。全然気が付かなくって」 「大丈夫。ほら、休憩にしよう?」  素っ頓狂な声を上げた実花に笑いながら謝れば、絵に描いたように狼狽えた実花が謝る。それに笑ってカップに紅茶を注いだ。投げられたパーカーを羽織り直して、実花はテーブルの正面に座り直す。 「ありがとう。これ、珠里が作ったの?」  鮮やかなペーパーナプキンに盛り付けられたスコーンを半分に割り、たっぷりとサワークリームを塗りながら首を傾げる。ゆるく波打つ髪がふわりと肩から落ちた。 「そうだけど……ダメだった?」 「そんなことないわ! 私にはできないから、いつも楽しみにしているの」 「ありがとう。そう言ってもらえると作った甲斐があるな。ほら、冷めないうちに食べちゃって」  言って、サワークリームとジャムを乗せたスコーンを口に運ぶ。さっくりとした表面に、もったりとした生地。それが重いかと思えば爽やかなレモンの香りがそれを感じさせず、甘さの控えめなサワークリームが丁寧に包み込んだ。そこに甘酸っぱいイチゴの酸味が加わる。我ながらいい出来だろう。 「珠里! とってもおいしいわ! サワークリームは甘ったるすぎなくていくらでも食べられるし、いつも思うけれど、珠里のジャムはこれだけで食べたくなるわね。この紅茶も珠里が持ってきてくれたの?」 「紅茶は戸棚にあったよ。覚えてない?」 「……確かに担当さんが差し入れてくださったけれど、こんなにおいしかったかしら……? そうそう、このカーネーションはファンの方からですって」 「ふふ。実花にぴったり。可愛いね」  濃淡様々なピンク色のカーネーションの周りで小さなカスミソウが揺れる。先のすぼまったガラスの花瓶は、控えめに模様がついているもののすっきりとしたデザインで華やかさを邪魔しない。それは、度々花束をもらう実花に、いつだったか贈ったものだった。 「ええ。私のファンだなんて、嬉しいわ」  小さく笑みを零す実花に、何とも言えない気持ちが過る。ファンがいる、というのは大事なことに違いはないのだけれど。幼いころから身近にいた存在が、少し、遠くなってしまった、ような。 「ファンは大事にしないとね。もちろん、私が実花のファン一号なんだから!」 「ふふ。私だって、珠里のファン一号よ?」  ふたりしてカップを両手に持って、顔を見合わせて、似たようなセリフ。思わず吹き出して、くすくすと笑みを交わす。  天気のこと、仕事のこと、最近話題のテレビドラマのこと。仕事を始めて会えない間に話したいことはどんどんたまって、話題は尽きることがない。なくなった紅茶を何度も入れなおして、実花においしい紅茶の入れ方を教えてみたりして。  視界を閉じ、改めて香りを楽しむ。ふわり、と湯気が運ぶそれとは異なる甘さが、春の風に揺れた。