偶然通りかかった花屋の前で、普段なら興味もないそれが目に留まった。買って帰ろうと思い至ったのは、特に何か理由があったわけではない。おそらくは。  春。世間は大型連休が終わった直後で、母の日だなんてものが大々的に騒がれていた。 「すみません、この花を包んでもらえますか」 「かしこまりました。母の日用ということでよろしいですか?」 「いえ……いや、そうですね。それとは別に、こちらもお願いできますか」 「ふふ。では、少し作ってみますね。ご予算はどれくらいですか?」 「そうですね……」  目を奪われた花を包んでもらうように頼めば、母の日か、と問われた。思い描いていた人物が全く別だったことに面食らい、咄嗟に否定の言葉が出てきてしまったが、せっかくなのだから、と思い直す。母の日は明日に迫っていたが、当日に母親、まして両親揃って顔を合わせることができるだなんて、全く思ってはいないが。  予算や花束の大きさ、ベースの色にリボンの種類を聞かれ、実際にまとめ上げられていくのを眺めながら決めていく。あっという間に、赤いものと橙色のものができあがった。 「メッセージカードはいかがいたしますか?」 「……いただきます」 「ありがとうございました」  出来上がった小さなブーケを手に、家路につく。大した額を持ち合わせていたわけではないため、本当に小さなものだ。 「……ただいま」  どうやって渡そうか。それを考えるだけで頭がいっぱいのまま、気付けば家の鍵を開け、戸を開いていた。室内は薄暗く、帰宅の挨拶への返答はない。  ぱちり。部屋の明かりをつける。そのままにしておくのは良くない、とはわかっているが、ダイニングテーブルの上に赤い一本ブーケを置いておく。もらったカードに、少し悩んでメッセージを書いた。  自室に戻り、すぐに着替える。財布をポケットに突っ込み、花束片手に玄関の戸に鍵をかけた。夕食は、この後ブーケを渡す予定の相手と食べる予定だ。

ぴんぽん

いつもより、少しばかり緊張しながら玄関の脇にあるチャイムを押した。響き終わるかどうか、というところで玄関が開く。 「いらっしゃい、颯矢。待ってたよ」 「サンキュ、優良」  いつものように簡単に挨拶をして玄関に入る。扉を閉め、鍵をかけたところで、既に靴を脱いでいる相手へ、振り向きざまに手に持っていたものを差し出した。 「……本当は、後でちゃんと渡した方がいいんだろうけど」 「えっ、何急に。どうしたの、これ」 「優良に似合うと思って」 「……こんなところじゃダメ。やり直し」  驚きすぎて一度は受け取ったものの、耳まで赤く染めた優良はひとつ大きく深呼吸をしてから、未だ靴すら脱がずに三和土にいる颯矢へと花束が突き返される。受け取りはしたが、返事は納得のいく声音ではなかったのがすぐにわかったのだろう。 「ほら、早く上がって」  式台に腰かけ、靴を脱ぐ。小さく背に投げられる謝罪の言葉は、聞かなかったことにした。

部屋へ上がる前に、居間と台所に顔を出しておく。招いてくれたふたりは快く迎え入れてくれた。有難いことだ。  挨拶という名の雑談をしていれば、優良が無言で背を叩いてくる。中途半端に途切れた言葉に、話し相手のふたりは微笑ましそうな顔。ちらりと振り返ってみれば、恥ずかしがっているのが丸わかりのくせ、不満で覆い隠せていると思っている顔。微笑ましそうな顔にいたたまれない思いをしつつ挨拶をし、後ろにあった頭を軽く叩き、背を押して部屋へ向かった。  ぱたり、と扉が閉まれば、背を押していた優良が途端に振り向く。 「颯矢のばーか」 「ん、悪かった」 「……ずるい」  はて。何のことかと首を傾げても、今の会話のどこにそう言われる要素があるのか甚だ謎だ。問うてみても、貶す気のこれっぽっちも混ざっていない力ない罵倒が重ねられるだけだ。  キリがないので、傍らの手を引いて部屋の中央にある柔らかなソファに座らせる。未だにぶつぶつと文句を垂れていた口は、その正面に跪けばピタリと閉じた。 「優良」 「……なに、急に」 「こんなの、ガラじゃないってわかってる。でも、言わせてほしい」  言葉を切り、真っ直ぐにその瞳を見上げる。美しい、その若葉のようにのびのびとした、翡翠のように輝きを失わない、その瞳を。 「これを、受け取ってほしい。他の誰でもない、俺を見つけてくれた冨加見優良に。誰よりも俺の近くに、いてくれないか」 「……ばか。颯矢のばーか! そんなの当たり前だろ! なんで、なんでそんな……」 「どうしても伝えたかったんだ。藻繰でもつぐ兄でもない、優良がいい」 「……ほんっとばか」  へなへなと力をなくしたようにうなだれるその膝の上に、強引に花束を押し入れる。俯き、顔を覆う手をそっと剥がせば、思いのほかすんなりと外れた。見上げた先の瞳は未だ瞼の向こう側。 「優良」 「……っ!」  名を呼び、掴んだその指先にひとつ口付ける。ぎょっと目が見開かれた。引き戻そうとするその手は離さない。 「優良」  その瞳をまっすぐ見つめながら、もう一度名を呼ぶ。頭上から困惑した気配がした。 「優良。……頼む。受け取ってくれ」 「……あのさ」  言葉を重ねれば、ひとつ瞬きをした優良が顔を上げてまっすぐにこちらを射抜く。手元にある花束が小さく音を立てる。同時に、指先に力がこもった。喉が鳴る音。意を決し、小さく息を吸う音。 「……置いて行ったら、許さないから」  その手を引きざま、腰を浮かせ、頭を抱え込む。崩した態勢を支えるために宙を切った片腕が、咄嗟に背を掴んだのがわかった。 「ありがとう、」    食事の用意が整ったという声に、慌てて身体を引き離す。そうして、少し萎びてしまったブーケをふたりで花瓶に移し替えた。  夕食後も随分と話し込んでしまい、宿泊の誘いを固辞して月明かりが照らす家路をひとり歩く。頻繁に夕食を馳走になっているだけで申し訳ないのに、そこまで世話になるわけにはいくまい。  そんなことを考えていれば、気付けば家の鍵を開け、戸を開いていた。室内は薄暗く、帰宅の挨拶への返答はない。  ぱちり。部屋の明かりをつける。ダイニングテーブルの上の赤い一本ブーケは、そのままそこに存在していた。そばに置いておいたカードも。  適当な花瓶に水を入れ、包装紙から花を救出する。力任せに剥がした包装紙は、丸めて屑入れへ。カードは読めないようにちぎっておく。  数日後、元気よく愛想を振りまく橙色の花とは対照的に、赤い花はそこに仲間入りを果たした。