締め切った窓の外から、煩いほどに命を燃やす音がする。誰もいない研究室のソファにぐったりと身を預け、堀田はぼんやりと薄汚れた天井を見上げていた。  試料が痛む、室内の気温が上がる、日差しが鬱陶しい。そんな理由で、カーテンは閉め切られている。学生のいない間にやらねばならない仕事にかこつけ、電気代の節約も兼ねて己の研究室に足を運び、空調を入れていた。  学生がいないこの時期にやっておかねばならないことは山ほどある。先に行われた試験とレポートの採点。各学生の成績評価。卒業論文の進捗の確認。後期のシラバスと授業準備。それに伴う実習場所の確保。自身の研究に学会へ提出予定の論文の作成、方々の研究所への連絡。まだ若手に類される堀田は、教授間の事務連絡や報告事項の取りまとめも担っていた。  片付けようと思っている仕事の山は、今や書類の山ではなく、デスクトップに貼ってある付箋だ。紙で保存しているものも勿論あるが、データ上での報告のやり取りが大半を占める今、よほど大切なものや興味深いものでなければ物理的に保存はしない。  茫洋とした視線が、薄暗い室内でも光を放つデスクトップに移り、壁紙が見えないほど付箋で埋まったそれにため息を吐いて、のろのろと身を起こす。涼しいはずの室内でも、ソファに接していた肌がじっとりと汗ばむのに眉を顰めつつも、床に足をつけて伸び上がる。途端、音を立てる身体に再度息をついて、今度こそパソコンの前に座った。

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「おわっ!」  よほど集中していたらしい。ぴたり、と首筋に触れる冷たいものに情けない声が上がる。それはそのまま離れるかと思いきや、そろり、と首筋から耳の裏を撫であげていった。ぞわぞわと背筋を何かが這い上がるような感覚を無視して首を反らす。  濡れた手をひらひらと振りながら、にんまりと笑う男が立っていた。 「びっくりした?」 「あー……したした」  おざなりな返事でもパッと嬉しそうに華やぐ。顔がイイ奴は得だ。しかし、この暑い中わざわざやってくるなんて、よほど暇だったのだろう。 「お前、俺がいなかったらどうすんだよ」 「先生がいないはずないでしょ」  妙に自信満々な口調に続きを促すと、指を折りながらつらつらと理由を話し始めた。 「夏休みが始まったばかりでしょ。ならテストとレポートの採点があるよね。後期の授業が始まる前にやらないといけないこともたくさんあるだろうし。先生はそういうの、先に済ませてから自分の研究に取り掛かるタイプ。学会とかオープンキャンパスとかそういう予定も、まだ余裕があるでしょ。あとはーー愛ってことで」  どう、だなんて言う割に、伺うように視線を向けてくるのに失笑する。むくれる頬をついて頭をわしわしと掻き混ぜて誤魔化した。思っていたよりも進んでいた。今日はもう仕事にならないのだから、ここまでにしておこう。 「で、今日はなんだって?」 「蝉が」 「は?」 「……蝉が、五月蝿かったから」 「……そうか」  ファイルを保存したことを確認して立ち上がる。再度しおれた頭をかき混ぜてから冷蔵庫に向かった。確かきのう飲み物を補充しておいたような。 「先生」 「あ?」  冷蔵庫を開けば、六缶パックのビールがそのまま置いてある。誰か学生が入れたのか。まあ、名前がないなら飲んでも問題ないだろう。つまみには困らない。がさごそと漁っていれば、後ろから声が飛んできた。返事とも取れないような相槌を打ってビールを抱え上げる。 「……聞かないの?」 「……あー、なんつーか……お前、若いな……」 「はあ!?」  途端に釣り上がる目元に遠慮なくゲラゲラと笑いながら、今しがた見つけた缶ビールを差し出した。 「ま、そんなもん酒でも飲めば忘れるだろ」  不満そうな顔に、喉の奥で笑う。不承不承、といった様子で受け取るのを確認してプルタブを起こした。 「待って先生!」  起こしたのと、制止の声と、どちらが早かったのだろうか。ほとんど同時だったのかもしれない。どう取り繕ったところで、既に遅かったのだ。

「先生、ごめん……」  あわあわと雑巾を取りに行く背を呆然と見送り、盛大に溜息をつく。たまには年長者らしくアドバイスでも、と思った途端にこれだ。俺が何をした。  ぽたりぽたり。髪から滴るビールに溜息をついて、冷房の効いた室内ではまずならないはずの、ぐっしょりと濡れたシャツを脱ぎ、顔と頭、上半身をざっと拭う。泊り込むこともあるため、服は数着置いてあることが幸いか。  タオルを取り出し、改めて身体を拭いてから、飛び散った残滓を拭いていく。冷蔵庫の側だったおかげか、精密機器や資料の類に散らなかったのは幸いだ。床は雑巾を待つとして、ぐっしょり濡れた布を纏めて抱え、常備してある洋服を引っ張り出した。 「せ、センセ……どうしたの、そのカッコ……」 「いや、濡れただろ」  バケツと雑巾を持ってきた男が上擦った声を上げるのに呆れて返し、後は頼んだ、と研究室の扉を開ける。背後から聞こえた情けない声は、聞かなかったこととする。

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どうしてこんなところにわざわざーーそれも汗をかいて袋にはりついたビールをぶら下げてーー来なければならないのかと思っても、結局は自分があの顔を見たいがための行動であるのだから溜息も出ない。  立っているだけで流れてくる汗を鬱陶しいとばかりに袖で拭いながら、目的地へ向かう。  向こうからわざわざ連絡を入れるような人でもなし、自分から行かねばあっさりと「そんなものか」で済ませてしまう人なのだから。ーーこれだけ通っているのだから、多少惜しく思ってほしいものだが、そう思ったところで素直に表には出してくれないだろう。  コンクリートから照り返す熱気が、目の前の景色を揺らす。耳鳴りのように響く蝉の喚き声。肌を焼く日差し。  じっとりと湿り、張り付くシャツが、ひどく不快だ。今からでもシャワーを浴びたい。これから行くところにはあっただろうか。  触れれば冗談抜きに火傷してしまいそうな、開け放された黒塗りの門を抜け、なるだけ日陰を探しながら目的の建物を目指す。すっかり人通りのない道にたまたま通り過ぎた学生は、滝のように流れる汗を首にかけたタオルで拭いながら、辛うじてやっている購買へ足を向けていた。  額を、首筋を、背中を、胸元を汗が伝う。どことなくひんやりとした感触に、今朝の目覚めが想起された。はやく。気持ちばかりが急いていく。 「あ」  指先に引っ掛けたビニル袋が食い込む。それを手繰るように持ち直そうとした。その僅かな瞬間だった。  汗に滑り落ちた袋は、派手な音を立てて灼熱の地面へと転がった。半ダースパックのおかげか、缶に穴が空いた様子はない。ほう、と胸を撫で下ろして、袋を拾い上げる。ずいぶんとついてしまった砂は水道で流せばいいだろう。  ーーつまり、一緒に飲むな、と。  胸中に浮かんだ言葉にひっそりと肩を落とし、漸々見えた扉を押し開けた。