季節は夏の盛りを迎えていた。蝉の鳴き声とともに首筋を流れる汗が鬱陶しい。だらしなくない程度に着崩してはいるものの、暑いことには変わりがない。行きしなに買ったペットボトルのお茶もあっという間に汗をかき、首元に当てても体温を下げているのか、ペットボトルの温度を上げているのかさっぱりわからなかった。  辟易としながら自動ドアをくぐれば、生ぬるい風が汗を撫でる。節電にうるさいのはわかるが、もう少し温度を下げてほしい。そんなものだから課で扇風機を何台も稼働させるハメになるのだ。  すれ違う顔におざなりに声をかけつつ自席へ向かう。馬鹿馬鹿しいものから凶悪なものまで、バリエーションに富んだ事件は枚挙にいとまが無い。おかげで警視庁は年がら年中慌ただしい空気が漂っていた。  たどり着いた一室は、どの席にも書類が山積している。片付けても片付けても積み上がる資料の数々にげんなりとしながら、席に上着を引っ掛け、ポケットから取り出したシガレットケースを机に投げ出す。どこもかしこも禁煙禁煙、吸える場所が遠いのが、班員からはすこぶる不評だった。 「月兎耳、ちょっと」 「はあ、なんですか」  かなり温くなってしまったお茶を飲んでいれば、相変わらず生真面目そうな曾我井チーフが声をかけてきた。そのまま珍しく言葉少なに連れ出される。やってきたのは小さな会議室だった。扉の先には課長がいる。しかも案内するだけしたチーフは中に入らないらしい。肩を叩いて元来た廊下を歩いて行ってしまった。何事だ。謹慎をくらうようなことはしていないはずだが。 「月兎耳、お前、今日から異動な」 「え、今日からですか?」  席につき、挨拶もそこそこに切り出されたのは予想外の話だった。もともとこの課長が冗談を言う質でないことは承知しているが、面倒な事件に駆り出されるに違いない。例えば—— 「知っているだろう。頭隠しだ」  ——頭隠し、とか。 「あー、なんか聞いたことありますね、確か頭が破裂するとかなんとか」 「そうだ。死亡時間や場所、年齢性別に至るまで共通点はなし。辛うじて関東圏に住んでるってことくらいで完全にお手上げ状態だ。で、怪奇事件を色々解決しているお前に白羽の矢が立った、というわけだ」  嫌な予感ビンゴォなんて思っていれば、そのまま滔々と事件について説明が始まった。縦社会がしっかりしているこの世界で、上司に逆らうのは至難の業。要するに、拒否権はない。 「まあ、できるとこまでやりますよ」 「不満たらたらなお前にひとつ朗報だ。好きに動いていいぞ」 「マジですか? ホントに好きにやっていいんですか?」 「まあ、始末書騒ぎになることだけは避けてくれよ」 「うーす」  好きに動ける、という言葉にすっかり気が抜けた。それまでの経過は資料を読み込むとして、後からの増員は元からいた人員の反感を買いやすい。事件の捜査以前に人間関係がすこぶる面倒なのだ。妙な派閥があったりもするし、自身が所属するゼロ課自体が疎まれているところがある。その事件以外の面倒ごとから解放されるとあらば、朗報も朗報に違いなかった。 「じゃ、頼んだぞ」  そう言って、課長は立ち上がった。後に続いて部屋から出る。帳場へ向かいながら、事件のあらましを思い返していた。とはいえ、知っているのは大した内容ではない。ここ数ヶ月都内で発生している、頭部がなくなっている変死事件だ、という程度だ。その様が「頭を隠されたようだ」として「頭隠し」という俗称が広まっている。  辿り着いた会議室の横に「東京都連続頭部損壊事件」と紙が貼ってあるのを見て、そんな名前だったのか、と今更思う。俗称がシンプルでわかりやすすぎる。声を掛ければ案の定嫌そうな顔をされたが、それでも資料の山を指さされた。  課長の言う通り、頭部がなくなっていること以外に被害者に共通点はない。死亡の際の時間や場所、性別や年齢なども完全にバラバラで、辛うじて東京、埼玉、千葉、神奈川を中心とした関東圏の居住者である、という程度だろうか。ただ、全員国会図書館の利用者カードを所持している、という点は気になる。日本中の出版物のある国会図書館に登録をしている者は少なくはないが多くもないだろう。  現場では争った形跡はなし。被害者の頭部の破片には外部から力が加わった形跡が一切なく、内側から破裂しているとみられている。薬物反応や細菌、ウイルスなどは発見されておらず、なぜ首から上が破裂したのか原因は不明。捜査が難航しているのも頷ける。  この事件、なんと目撃者がいるようで、「何かうわごとを言い始めたと思ったとたんに顔がブクブクと腫れ上がり、みるみるうちに肥大化してそのままはじけた」とのこと。どうも精神的なショックが大きく、あまり詳しい話を聞けるような状態ではないらしい。さもあらん。  しかしながら、国会図書館の利用者カードに何か仕込まれているとは考えにくいために捜査本部の方針では重要視されておらず、うわごとに関しては目撃者の証言記録すら取られていないようだ。 「……じゃあまあ、とりあえず、国会図書館でも行ってみっかな」  見せてもらった資料を片付けて礼を言い、自席に投げ出したシガレットケースを回収しに立ち上がる。忙しない声があちらこちらから聞こえてきた。今日も事件が起きているのだろう。  放置したペットボトルの汗がシガレットケースをびちょびちょに濡らしているのにげんなりしていれば、隣から揶揄うような声が投げつけられた。それにぞんざいに答えて手を振る。頭隠し。東京都連続頭部損壊事件。いずれにしろ、厄介な事件に違いはない。

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ポケットに突っ込んでいた携帯電話が音を立てながら震えるのに気がついた。日陰を探して建物の影を選んで歩いてはいたものの、アスファルトからの照り返しがきつい。道ゆく人々もどこか気だるそうながらも、足早に目的地へと歩を進めていた。  目の前にあった商業施設の扉をくぐりながら携帯電話を取り出す。全身に吹き付ける冷気が有難い。かいた汗が一気に引くのを感じながら画面を見る。冬白霾。クルックの編集長だ。 「もしもし」 「あ、樋田くん。最近どう?」 「まあぼちぼちですね。なんかおもしろいネタでもありました?」  涼を求めてやってきたであろう人、遊びに来た家族連れ、楽しげに話す女性グループ、仲睦まじく寄り添って歩くカップル。様々な人々がドアを潜るのを観察しつつ、脇の壁に寄りかかった。入り口付近は風で冷気を逃さないようにしているのか、一段と気温が低いようにすら感じる。背にひんやりと石特有の冷たさを感じつつ、電話口の声に耳を傾けた。  電話口から聞こえてくる声はいっそ涼やかですらある。ゴシップ誌の王様ともされている「週刊クルック」の若き編集長へは、度々記事を寄稿していることもあり、細く長く続いている縁のひとつであった。 「うん。実は今、ぜひ書いてほしい記事があるんだよ。最近ネットで流行っている『亞書』について。どう?」 「ああ、あれですね」  オカルト好きで知らない者はいないだろう。ここ数か月、ネットを中心として広がりを見せるリアルタイムの都市伝説のことだ。それは、『亞書』と呼ばれる謎の本が国立国会図書館に大量に納本されていることに端を発している。  現在『亞書』は一般閲覧不可となっており、その内容も不明となっているため、真偽は定かではない。これを記事にするというセンスは流石と言えるだろう。そんな話題性の高い記事へ指名された、ということにも気分が上向く。 「そう。今回はこっちが依頼しているし、取材にかかった費用はこっちで持つから、徹底的調べ上げてくれる? 出来次第だけど、原稿料にも多少色をつけるよ」 「お、マジすか。ならぜひやらせていただきますよ」 「ありがとう。楽しみにしているね」 「ええ。吉報をお待ちください」 「よろしく」  短いやり取りの後、電話は途切れた。どうやら編集長殿は相も変わらずお忙しいらしい。その場で簡単に『亞書』について検索をかけて見れば、流し読みしていた掲示板の考察やブログの記事が目に入る。  国立国会図書館法には、日本で発行された書籍は種類にかかわらず国会図書館に納めなくてはならない納本義務があり、小売価格の半額を代償金として申請することが可能である。 『亞書』は一冊六万四千八〇〇円でネット通販サイトに登録されていたが、現在は出品停止となっているうえ、過去に販売実績はない。つまり、実質一冊も世に出回っていないにもかかわらず、国会図書館に納本されているのだ。  にもかかわらず、国会図書館に納本されている、という奇妙さ。ゆえに、「故人の遺作を編纂したもの」「マネーロンダリング」「海外の諜報員から送られてきた暗号化された機密文書の漏洩」というものや、「納本義務を悪用した代償金詐欺」などという噂がまことしやかに囁かれている、と締められていた。  ひと通りの考察を読み終えたところで『亞書』と名付けられた理由を考えてみることにする。タイトルとは文字通りその本の「顔」である。無関係な名付けをすることは考えにくい。  確か、「亞」とは象形文字で「十字に掘った墓穴」という意味がある。漢字本来の意味としては「次」「継」だったはずだ。墓穴を表す本。次へ継ぐための本。いずれにしろ不穏な響きである。噂にある「読むと死ぬ」というのも、オカルト的には案外的を射ているのかもしれない。 「国会図書館、ねえ……」  ひとり言ちながら、壁から背を離す。元より興味はあるネタであったのだ。行き先は決まった。まずは必要経費、ということで、涼を存分に取らせてもらったお礼に、この建物にある店舗で、ちょっとお高めの飲み物でも買うとしよう。

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すっかり馴染みとなった事務所の扉を開ける。ブラインドを下げていたおかげで多少マシ、程度のなんとも言えない、むわりとした熱気が肌にまとわりついた。真っ先に冷房を入れ、冷蔵庫に常備しているミネラルウォーターの封を開けた。阿九探偵事務所。この年で全く別の職種に誘われた時は正気かと思ったが、やってみれば案外なんとかなるものだった。  パソコンを立ち上げ、スケジュールを確認。共同経営者でもある相方は先日からかかっている案件のために今日も一日外回りのようだ。メールチェック。本日の依頼の予定はなし。ということは、今日はフリー。先日までの案件の最終的な収支報告のために電卓を叩いていると、呼び鈴が鳴った。 「ん、お客さんかなあ」  立ち上がり、扉を開ける。自分と同じ年頃だろうか、この暑さにもかかわらずかっちりとネクタイを締めた男性がどこか呆けた様子で立ち尽くしていた。こんにちは、と声を掛ければ、困惑したような返事が返ってくる。 「探偵さん、ですか」 「はい。ここは探偵事務所ですよ」  効いてきた冷気が逃げるのに内心悲鳴を上げながら、男性を招き入れた。ソファに案内し、自分の分とまとめてコーヒーを出す。その間も、男性は何を言うでもなく、じい、とソファに座っていた。 「今日はどんなご用向きで?」 「あの、その、お願いがありまして……私が誰だか、突き止めてほしいんです」 「え?」  思わず間抜けな声が漏れる。わたしがだれだかつきとめてほしい。日頃聞くことのない文字の羅列だ。ひとつひとつは意味もわかるしよく使うものだが、文字列になった瞬間に意味を飲み込むことが難しくなる。 「……もう一度説明してもらってもいいですか?」 「ええと、自分の名前もわからなくて」 「なるほど。住んでる場所もわからない?」 「はい。気が付いたら、ここの前にいたんです」 「そうなんですか」  聞き返したところで、返ってくる内容は同じだった。名前がわからない。つまり、記憶喪失、というやつだろうか。すごい。初めて見た。しかしこれは依頼、ということなのだろうか。探偵に頼むことではないのでは? 「やあ、すごいですねえ……えー、何か持ち物はないんですか?」 「はあ。持っているのはこれだけです」  そう言って男性がポケットから取り出したのは、札束とメモ用紙、それから何かのカードだった。数えてみれば、現金は二十万円。男性は調査費用として、と言って渡してくる。記憶がないと言うし、ひとまず預かっておこう。多ければ返せばいい。とりあえず他に手がかりがないか改めるだけして見ることにする。  メモ用紙は、システム手帳で使われる罫線の書かれた紙に、探偵事務所や興信所の名前、電話番号と住所の羅列がボールペンで殴り書きされていた。あいうえお順なのか、一番上に阿九探偵事務所の文字が踊っている。ここがダメなら、警察に行かずに次に行くつもりなのかもしれない。  隅のほうに「もう自分でも自分がわからなくなっている。もし目的を忘れたなら何でもいい、ここに頼みに行け!」と殴り書きされているのを見つけ、いよいよ謎が深まってきた。徐々に記憶がなくなっていくということはあるのだろうか。長年の医師としての経験では、そんな症例は聞いたことがない。警察よりも病院が先だろうか。  そんなことを考えつつ、最後のカードを見る。国会図書館の利用者カードだった。ID部分はあるものの、利用者氏名欄は何故か削り取られた跡がある。誰かが意図的に名前のわかるものを削った、にしてはID部分を残した上で、カードを破棄せずに本人に持たせていることに疑問が残る。しかしながらメモの文字を見るに、自分が削ったとは考えにくい。  裏側にはカードの利用に際する注意書きが印刷されている。その上からマジックで大きくホームページアドレスが書かれており、その横に数字が書かれていた。一五六七九。携帯電話で調べてみれば、ホームページは国会図書館のものだ。数字を検索してみても、『吉田茂の復興から独立へのリーダーシップ』『定年後危機』『母子の対話による二歳児の発達』などで、全く関係があるように見えない。 「何か思い出すことは?」 「何も」  現金、メモ、カードを机に並べて提示しても、全く記憶にないと言う。近所の交番よりも警察署の方がいいだろう。その前に国会図書館に行ってみれば、利用者IDから登録者名と住所はわかるだろう。そうすれば、ひとまず依頼は達成された、ということになる。無理でもその足で警察署に向かえばいい。 「……とりあえず、探偵事務所より警察に行った方がいいんじゃないかなあ」 「はあ、そうですか……警察にはどうやって行けばいいんですか?」 「それは僕が連れて行くよ」  それはそうと、お腹は空いてる? と聞けば、気の抜けた応えが返ってきた。冷蔵庫にあったサンドイッチを手渡す。ぼんやりとサンドイッチにかぶりつく様を眺めつつ、思考を巡らせる。国会図書館に行くにしろ、警察に行くにしろ、長い一日になりそうだった。