「大家、出かけるぞ」 「え、なに」 大家の部屋をノックしても反応がないことを確認した枢は、遠慮なく扉を開け放った。一心不乱にラップトップに指を滑らせる担当作家である大家に声をかければ、肩を震わせて振り向く。ごはんに行くの、と問う声にそんなもんだ、と返せば、頷いた大家はラップトップを閉じて立ち上がり、財布をポケットに突っ込んでそのまま部屋を出て行こうとする。 「おいお前、そのまま行く気か?」 「ダメかな」 「ダメだな。これとこれ。とりあえず着替えろ」 首周りが伸びきっている上に、元気な魚のプリントも剥げてしまい、瀕死どころか干物になってしまっている魚のTシャツとスウェット姿に、枢はたまらず待ったをかけた。気に入っているのかは知らないが、早く捨てろと言ってもいつの間にか着ている謎のTシャツシリーズの隣は流石に歩きたくはない。クローゼットを開けてそれなりに見えるTシャツとジーンズを出してやる。大家が大人しく受け取ったのを確認し、枢は部屋を後にした。 どうにも、あの作家様は一度のめり込むと寝食を忘れ去るきらいがある。担当としては嬉しい限りではあるが、ふ、と集中力が途切れた時の反動が凄まじい。気絶するだけで済めばいいが、校正に入った段階で自虐に向いたら目も当てられない。ドル箱作家がなぜそこまで自己肯定感が底辺を這っているのか理解に苦しむ。 「お待たせ」 「ん、行くぞ」 大して待つことなく、大家が二階の自室から下りてきた。靴を履いて外へ出れば、空調の効いていた室内から一転、夏特有のむわり、とした空気に包まれる。じんわりと汗をかく感覚に気持ち悪さを感じるが、それは誰もが同じ。既に七時前ではあるが、外は未だ明るい。そこに煌々と街灯が輝く街並みは、夏の夜空の煌めきを見えにくくししまうようだ。 「お祭り?」 しばらく歩けば、遠くから祭囃子が聞こえてくる。神も仏も信じてはいないが、この辺りでそこそこ大きな神社は、『色々』なことをするのにちょうどいいため、それなりに来ることもあるのだった。 ふと、大家とはそういう話をしたことがないな、と思う。ただ、そういった領域の不可思議な事態に巻き込まれた経験は残念ながら少なくはなかった。 「たまにはいいだろ」 「……書きたいことがまた増えちゃうね。ありがとう」 大家はそう言って少しばかり困ったように微笑んだ。敷地内には所狭しと屋台が軒を連ねていて、それなりに混み合っている。入り口付近にはお面やキャラクターの袋に入ったわたあめ。少し奥に入れば焼きそばやジャガバターにかき氷といった定番の食べ物から、千本引きや輪投げなど、ゲーム系の屋台も揃っていた。 「何食う?」 「うーん……あんまりお腹減ってないや。あ、あれはどう?」 「どれだ?」 屋台の並ぶ通路の曲がり角にある屋台の屋根には、オレンジの地に青字で『かたぬき』と書かれていた。近くに置いてある長机には子どもたちが片やわいわい騒ぎながら、片やそれはそれは真剣に机に向かって何かをしている。 「かたぬき?」 「うん。やったことある?」 「ねえな。何するんだ?」 「見ればわかるよ。結構難しいから、紫苑くんもできないかもね」 「へえ」 「僕は簡単なのしかできたことないや」 大家は二人分お願いします、と店主に言って二百円を手渡す。そうして、薄桃色の小さな板のようなものと、画鋲をそれぞれふたつずつ受け取った。 「兄ちゃんたちはちょっと難しいのがいいだろ?」 「え、僕簡単なのしかできたことないんですけど……ってこれ本当に難しいやつじゃないですか」 「わはは、頑張れよ!」 雑なエールを受け取りながら、はい、大家は板と画鋲を枢に手渡す。小さな板にはチューリップの形に溝が掘られていた。 「画鋲を使って、この溝の通りにできたら成功。割れたら失敗だよ」 「いや、このチューリップの茎、すごく細くねえ?」 「そういうものだよ。僕は瓢箪かあ……できるかなあ」 板は親指ほどの大きさで、ラムネのような素材でできている。大家も枢も割合器用な方ではあるため、大きなところは簡単に割れるだろうが、この茎まで綺麗に残すのは至難の業だろう。 ふたりでパイプ椅子に並んで座り、目の前のラムネ菓子に全力で集中する。まずは葉の外側を大きく割り、ギザギザとした花の部分も丁寧に外していく。そうして、最後に残った茎を慎重に削っていった。 「あ、できた」 「あーあ」 どうやら大家はうまくいったらしい。見比べてみれば、瓢箪のくびれは枢のチューリップの茎よりも若干太い。枢は綺麗に茎と葉が分かれてしまっていた。 「へえ、大家やるじゃん」 「ありがとう。でも、もう一生できない気がする……」 「おお、すごいな兄ちゃん! これ、景品な」 「え、あ、その、はい。ありがとうございます」 店主から景品としてザラメのついた大きな飴玉をもらった。これを食べたらそれだけで口の中がいっぱいになってしまうだろう。 「どうする、もう一回やるか?」 「紫苑くんは?」 「俺はいいや」 「じゃあ僕もいい。なんだかお腹が空いてきた気がするから、何か食べよう」 「そうだな」 店主にもう一度礼を言い、できたものは子どもたちの手本用に、と強請られるがまま机上に残す。割れてしまった方は食べられるものではあるが、衛生的にはあまりよろしくないため、傍に設置されていたゴミ袋へ捨てることにした。 「色々あって迷っちゃうね」 「色々買えばいいだろ。ふたりで食えば、なんとかなるんじゃねえか」 「そうだね。ありがとう、紫苑くん」 「じゃ、俺はじゃがバターでも食うか」 「うーん、じゃあ僕はフランクフルトにしようかな」 日が暮れて、提灯の灯りがいっそう美しく祭の会場を彩る。祭を楽しむ人々の顔が、活気のいい声が、祭囃子の音が、星空にも劣らない煌めきを放っていた。