立派な日本家屋を前に、未だに何となく緊張してしまうのを抑えて呼鈴を押す。しばらく待った後に漸う帰って来た応えに名前を告げれば、短い返答のあとにがちゃり、と門扉が開錠する音がした。 そのまま遠慮なく敷地に足を踏み入れ、見事な庭園を尻目に玄関の扉をもらった合鍵で開ける。何やら手が離せないらしいが、何かあったのだろうか。 ひとまず、庭が良く見える居間へ向かう。須藤は大抵そこにいた。しかし、辺りを見てもその気配はない。耳をすませば、どうやら台所で何かしているようだ。 ひょこり、と顔を出してみれば、ぱちりぱちり、と須藤が花の茎を切っている。随分と大きな花束だが、ある花瓶に生けるには茎が長すぎるのだろう。花束はある程度茎が長くても大きなリボンや包装で見栄えもするが、活けるとなるとあまりに長ければみっともない。そういうこだわりもきっとあるのだろう。 「須藤、それどうしたんだ?」 「もらった」 「……なんで?」 「……さあ」 どうしてもらうことになったのかはよくわからないらしい。それには俺も首を傾げるしかない。手元の花は、随分と暗い赤色のようだ。いっそ黒と言われた方がしっくりくるほどだ。この時期はよく見かける。カーネーションだろうか。 松葉色の羽織に袖を通した須藤は、気にせずぱちり、と茎を落とした。
須藤がしばらくそのままでいるのを見、台所を辞す。風呂の掃除でもしておくべきか。どうせ泊まって行くことになるのだろうし、それくらいはしなければならないだろう。一声かけて浴室へ向かう。 昔ながらの作りで、北に面した浴室は、どこか寒々しい。日中は暖かいはずなのに薄暗く冷えるそこを、朝生はひとりで訪れるのがあまり好きではなかった。だからだろうか、なんだかんだと理由をつけては須藤と共に訪れている。ただ、その回数も少なくはないというよりもあまり断られたこともないので、須藤も共に入る方が好きなのかもしれない。 床はどうしても冷えるためにあまり好きではないようであるのは俺も同じだ。しかし、浴室に声が響くのも、浴槽の外で互いの体温をより感じるのも、湯の中で波音が立つのも、隙間からナカに湯が入るのも、跳ねた湯が身体を撫でるのも、どれも興奮の材料にしかならない。 思い出してわずかに反応した自身を抑えるように、無言で洗剤を壁に浴槽に吹き付けた。洗剤が染み込むまでの間、シャワー回りの掃除をしていく。錆びにくい素材であるが、水垢で白くなってしまっている部分を丁寧に掃除していった。 時間が経てば、上から湯で洗剤を洗い流していく。湯で洗剤を溶かし、水で浴室を冷ましながら余計なものを流していく。最後に水気を切れば、大分キレイになったように感じた。湯を張るにはまだ早い。このまま自然乾燥させれば多少は違うだろう。 居間に戻れば、床の間に以前からある掛け軸の前に立派に活けられたカーネーションが鎮座しており、なかなかの存在感を放っている。普段なら掛け軸も片付けていてよさそうなものを、そのままにしているのはすぐ枯れてしまうからそのままなのだろうか、と首を傾げた。 疑問はそのままに、隅に片付けられていた新聞を取り出す。ニュースでやっていたものの中で気になる論説を探し、テレビで報道されていない小さな記事に適当に目を通していく。 「朝生、ちょっとこれ持って行って」 「ん、わかった」 いつの間にか夕食の支度もできていたらしい。机を拭き、箸と夕食を並べる。今日のメインは魚らしい。白身魚のようだ。鯛だろうか。塩焼でも照り焼きでもなさそうだが、何で焼いているのか。さっぱりわからない。それから、サヤエンドウの緑が鮮やかな五目煮に、小松菜とタケノコのお浸しだ。みそ汁は豆腐とワカメ。典型的な和食だ。 食卓にごはんまでよそい終えれば、手を合わせて食べ始める。みそ汁はいい塩梅だし、煮物も野菜によく味が染みている。魚は何かわからないが、醤油で焼いたような色をしている。 「須藤、これ何?」 「サワラの幽庵焼き」 「ゆ……なに?」 「幽庵焼き。醤油とみりんと酒に漬けたのを焼いただけ」 へえ。相槌を打ちながら食事を堪能する。サワラか。自分じゃ面倒で魚なんて買わないなあ、と思いつつ、他愛のない会話をしながら皿を空けていった。 食事を終え、湯を張り、洗い物を片付ける。風呂に誘おうと思っていたのに、洗い物の最中にさっさと済まされてしまっていた。今日は風呂場の気分ではなかったらしい。膨れたままの腹を落ち着け、交代で風呂に入る。 湯船につかりながら、先ほどすれ違った須藤の姿を思い出した。浴衣を一枚羽織り、髪から滴る雫をタオルで乱雑に拭く、その様。零れ落ちた雫が襟を濡らし、そのまま胸元へと流れていく。ゆるく縛られた腰帯は、きっちりとした普段着とは裏腹に少しばかり厚いその胸板を見えそうで見えない程度に隠していた。 今日はどうしてやろうか、なんて考えていれば、じわじわと熱がこみあげてくる。のぼせてはいけない、とばかりに浴槽から足を踏み出し、手早く身を清めた。 タオルでぞんざいに頭を拭きながら居間へ戻れば、須藤の姿が見えない。寝室へ行ったのだろうか。……部屋も先ほどとは何かが違うような気がしたが、おそらく気のせいだろう。これからの時間のことを考えれば、些事である。
「須藤、いるか?」 寝室の前で声をかければ、なにやらごそごそと動く音がする。多少の間。それから、了承の声。そのまま襖を開ければ、甘い香りが鼻を掠めた。 真っ白いシーツ。それに散らばる、無数の花。深紅よりもなお深く、その色は黒に近い。その茎は短く、花だけのようになっており……先ほどの居間の違和感はこれか、と得心した。 「朝生」 その中心で寝そべる須藤が声を上げる。射貫くような視線とぶつかる。目を反らせない。須藤は、徐に傍らの花を手に取り、口付ける。そうして、片腕をまっすぐこちらに伸ばしてきた。 「……緋向」 誘うようにゆっくり紡がれるそれに、たまらずその手を掴み、覆いかぶさる。陰になった須藤はにんまりと口元に笑みを刷いた。その頬を、生乾きの髪から滴る雫が滑り落ちる。 「なあ、シようぜ?」 噎せ返るような花の香り。その誘いを紡ぐ唇に噛みつくことが、答えだ。