どこかから音が聞こえる。ぼんやりとした意識がふわふわと浮き上がる感覚。転がりだした意識を外へ離したくなくて、掴んだ布団にもぐりこむ。 「――、ああ、もう。早く起きてってば」 べろり、と音を立てて布団が剥がされる。あっという間に冷気が入り込んで、暖気を少しでも逃がさないよう体を丸めた。ダメ押し、とばかりに肩をゆすられる。 「…………今何時?」 「九時」 「……嘘でしょ。まだ暗いじゃん」 「日の出が八時半なの」 「冗談キツ……」 手探りで布団のぬくもりを求めていた眼前に、眩ゆいばかりの携帯端末が付きつけられた。八時五十七分。確かに朝だ。渋々起き上がって窓を確かめても、カーテンの隙間から漏れ出る太陽の光はない。 身を起こしたことを確認して灯りがつけられた。いつの間にかつけられていたテレビからは、今日の天気が流れている。何を話しているかはわからないが、今日の天気は晴れ、降水確率はゼロパーセント、最高気温は六度、最低気温は一度。 「寒くない?」 「まあ、向こうなら最高気温十度くらいあるしね。ねえ、早く顔洗ってよ」 洗面台へせっつかれ、髭を剃って顔を洗い、のそのそと着替えて財布とパスポートをポケットに突っ込む。ダウンジャケットを羽織り、ルームキーを手にして部屋を出る同居人の後に続いた。
まだ街灯の灯る薄暗い通りを歩く。観光客に通勤者、ランニングや犬の散歩など、様々な人が行き交っていた。駅への道を右へ曲がり、駅前通り沿いにあるカフェで朝食をとることにした。 ディスプレイに様々なサンドイッチが並んでいる。カリッと焼きあげられたバゲットから溢れんばかりに具がのぞいていて、大した距離を歩いたわけでもないのに胃が空腹を訴えてくる。 店員に指をさして購入するものを伝え、コーヒーと合わせて注文した。頭のCがKになっただけの上、発音も大して変わらないのだから、流石にわかる。同じヨーロッパ語圏、言語体系が似ているのだろう。 「あれ?」 「何?」 「いや、後で」 「そう」 ポケットに手を突っ込んで首を傾げる同居人を適当に流して会計を済ませ、適当な席に座ってサンドイッチを頬張る。コーヒーが温かいのが嬉しい。駅前ということもあってか、客は少なくない。 向かいで同じようにサンドイッチを頬張る同居人に視線で促せば、ポケットから見覚えのないコインを取り出した。鈍い金色に輝くそれは、貨幣ではないように見える。三角形を二つ重ねた六芒星。その頂点のひとつだけ、飛び抜けて遠くに出張っていた。 飛び出した頂点と、向かい合う点が、まるで星をふたつに割るかのように線が引かれ、飛び出た頂点のひとつ右の頂点と、向かい合う頂点にも線が渡してあった。見ようによっては、五芒星が二つ組み合わさっているようにも見える。 コインを裏に返せば、かまぼこのような、半円の内側の直線部分に接するように円が描かれている。周囲にはびっしりと何か文字のようなものが彫り込まれているが、文字なのか文様なのか判別がしにくい。 「どうしたの、これ」 「知らない。きのうはなかったはずだけど」 「こんなの拾ったらさすがに覚えてるしね」 「あと可能性があるとすると……きのうぶつかった人かな」 「無理矢理ねじ込んだって?」 わからないことに互いに肩をすくめ、それでこの話は終いだ。シャキシャキと歯応えの良い葉野菜と、何かのペーストとひき肉が絡まって良い塩梅を醸し出しているサンドイッチを食べ切った。
「で、どこ行くの」 「世界遺産の横を通って博物館かな」 「ふうん」 駅を突っ切って反対側の駅前に伸びる大きな道路を渡り、デパートのような大きな建物と建物にはさまれた商店街に入る。ここは完全に歩行者天国状態となっていて、道幅は広いが、車は進入禁止になっているようだ。 生成りのコンクリートレンガでできた建物の角を左に折れ、車通りのある道を数本渡り、まっすぐ南に進む。この街の特徴なのか、国の特徴なのか、欧州建築の特徴なのか。テナントが数多く入る建物にはかなり広い中庭が設えられており、中央を自由に通り抜けられるような造りになっているものも少なくない。石造りの中庭を通り抜けるたび、外側とはまた違った顔を見せる建物群がおもしろかった。 そうしていくつか中庭を通り、再び大きな通りに出た。不思議な形の建物沿いに道を右手に折れると、先端が船のように尖った奇妙な建物が眼前に現れた。 「また変な形してるね」 「これ、世界遺産だよ」 「これが?」 「そう。」 今通ってきた中庭の建物もだけど。付け加えた同居人にふうん、と背後を振り返る。赤レンガの美しい建物群が丸ごと世界遺産に認定されているのだろう。この妙な建物の向こう側も赤レンガが美しい。 「チリハウス?」 先端のすぐ脇にある入口のアーチ部分に沿って、金色の文字看板が取り付けられているのが見えた。一階部分はアーチ状になっており、それぞれがテナントの出入り口となっているようだ。同居人が観光パンフレット片手に説明を付け加える。 「オーナーがチリの採掘貿易で儲けて建てたんだって」 「へえ。それだけで世界遺産になるもんなの?」 「いや、節穴すぎない? レンガ積みでこんなに滑らかな曲線にするだけじゃなくて、わざわざ斜めに積んだり積み方の凹凸で幾何学模様を表現したりなんてすごいと思わないの?」 「ああ、うん。確かにすごいね」 「もうちょっと興味あるふりしてくれてもいいと思うんだけど」 表現主義建築の代表作って言われてるみたいだし、そうでなくてもこんな建物を建てるのに不向きな地形を広場として遊ばせておくんじゃなくて、逆手にとって時代の最先端を建てるなんて発想がすごいでしょ。 「でも、さっき通ってきたところもそうだけど、世界遺産なのにちゃんと使ってるんだね。日本だとお寺とか神社とか、観光ばっかりなイメージ」 「わかる気もするけど、坊さんも神主さんもいるから『ちゃんと』使ってない、っていうのは乱暴でしょ。生活の一部になってるもの、っていうくくりなら、白川郷とか造船所とかさ」 「造船所なんてあったっけ?」 「明治の工業関連でまとめて登録されてたんじゃなかったかな。長崎とか萩とか」 「ふうん」 振ってきたくせに適当に相槌を打つ同居人の隣で、奇妙な曲線の壁面に規則正しく並ぶ窓を見ながら、この建物の建設を命じた人間はまともでないな、と思う。中がどうなっているかはわからないが、これでは窓枠も部屋の間取りも調度品も苦労するだろう。 「そうだ、芳矢さん、チョコレートどう?」 「何?」 「そこ。チョコレートミュージアムだって」 「……行きたいなら付き合うけど」 「じゃあいいや」 観光パンフレットに記載された地図を見て思ったことだが、この街にはやたら博物館が多い。街の歴史博物館や、この街出身だというブラームスはともかく、やれ車だの鉄道だの船だの。果てはインディーズ時代ここで下積みをしたというビートルズの記念館まであるというのだから、有名人にあやかるのはどこも同じらしい。 世界遺産となっているオフィスを一周することなく、チョコレートミュージアム沿いに折れれば、川沿いの幹線道路に出る。歩道橋を渡ってすぐの所に架かる橋からは、旧市街の倉庫群が列をなしていた。 「これは、すごいね」 「ハンザ同盟で自由貿易を実現した時の保管場所だって」 観光パンフレットを同居人が読み上げて解説をする。川沿いに並ぶ真っ赤なレンガ造りの倉庫は、冬の高い空と川とのコントラストが美しい。ゆっくりと観光船が通っているのが橋の上からでもよく見えた。 レンガ造りの倉庫と言えば日本にも横浜やら函館やら各地にあるが、それとここでは規模が違う。商業施設やレストラン、博物館、オフィスなど、遊ばせている建物がないのがまたおもしろい。横浜も函館も赤レンガ倉庫は商業施設になっているが。 ここはいくつかの中洲を補強し、それぞれに倉庫を建て、それぞれに橋を渡しているようだった。船から直接荷を積み下ろしすることを考えれば、どの建物も川に面していた方が都合が良いのだろう。ここからではまだ見えないが、つい最近まで稼働していた木製のクレーンまであるという。 赤いレンガの建物はいつしか片側だけになった。川の向こう側に教会が見える。そのまま川沿いに歩いて行き橋を渡って隣の中州にわたる。右手にある大きな橋からまっすぐに伸びる通りに沿って左に折れ、鉄骨のアーチが車道と歩道を分けている橋を渡れば、正面に全面ガラス張りの近代的な建物が並ぶ。 用があるのはどうやらこの倉庫の一角のようで、そのまま倉庫沿いに歩いて行った。 「あ、ここかな」 赤いレンガの建物の端。ぱっと見ても全く分からないが、どうやらここが目的地らしい。美しく作られたアーチに緑色に塗られた扉がはめ込まれている。扉の横に、黒字の看板で控えめに博物館名が書かれていた。目的地にしていなければ見落としてしまいそうだ。 「しゅ……何博物館?」 「シュパイヒャーシュタット。前半は倉庫とか物置って意味で、後半は町。このあたりの地名だよ。そのまんまでしょ」 「ああ、中華街」 「どっちかっていうと山中湖?」 種にも実にもならない話をしつつ、階段を上がって四階の受付へ。ここは欧州のため、地上階は階数に含めず、日本でいう二階を一階とカウントするのだ。今朝ふたりしてホテルのエレベーターで降りる階数を間違えたのは記憶に新しい。 受付で入館料を支払い、中に入ってみれば当時使用していたのだろう物が通路に展示してある。壁際に行先の地名のプレートが並べてあった。香港、上海、ペナンに混じって横浜の文字を見つけ、なんとなく面白い気分になる。 「このあたり、当時は倉庫だったでしょ。取引している物は……近世くらいからあんまり変わってないな」 「コーヒー、紅茶と香辛料?」 「あとカカオとタバコ」 「ああ」 キャプションはドイツ語のために書いてある内容はわからなかったが、展示されている現物や写真を眺めていると、同居人がざっくりと解説を入れてきた。 「商品を入れてた麻袋、中身によって積み方を変えてたらしいよこっちは、樽とか木箱の用途だね」 大きな樽に木槌が乗っていたり、木箱に吊し上げる用のワイヤーが付いていたり、かと思えば金属製のドラム缶があったりと、入れ物ひとつひとつが興味深い。どれも百年二百年前に実際に使用されていたものらしい。 当時から重要な荷のひとつであるコーヒーについては、主たる産地と生育方法、収穫、焙煎、取引状況に販売ルートと、一貫した展示となっているようだ。 「へえ。コーヒーって結構わがままな植物なんだね」 「この世界地図で見る限りだと結構広いように見えるけど。コーヒー……何?」 「コーヒーベルト。赤道から南北二十五度のエリアみたいだよ」 「確かに先進国は入ってないけど」 「年の平均気温が二十度で、雨季と乾季があって、標高五百メートル以上の高地だって。高いところの方が朝晩の気温差があっていい豆ができるんだってさ」 「ああ、確かにどこも山の方だね」 産地で風味が違うのはこういう事か、と頷く。コーヒーは眠気覚ましに飲むもので、インスタントコーヒーに湯を注ぐ程度しかしていなかったが、同居人の趣味で産地によって味が違うことに気付いたのだった。 最後はこのあたりの歴史について簡単にまとめられていた。遠い記憶の世界史の知識を引っ張り出す。確か、自由貿易で幅を利かせていたような。 「ハンザ同盟だっけ」 「うん。町自体は六世紀ごろにはあったみたいだけど、大型の船も出入りできるようなきちんとした港ができたのは一一八〇年だって」 「十二世紀……叙任権闘争?」 「神聖ローマ皇帝のフリードリヒ一世が第三回十字軍の褒賞に関税特権を与えたって書いてあるけど」 「ああ、もう少し後か」 「十三世紀にハンザ同盟が成立して……発展してたけど、三十年戦争終結で衰退?」 「飛ばしすぎじゃない?」 確かに、神聖ローマ帝国と共に興った同盟が『神聖ローマ帝国の死亡診断書』と評されるそれで終焉を迎えるのはわからなくもないが、ヴェストファーレン条約は十七世紀だったような。 「それで、プロイセンというかユグノーの支援を受けて復興して、ドイツ連邦に加盟」 「また随分飛んだ気がするけど、うん」 「一八七一年のドイツ帝国が成立したときに、ビスマルクに交渉して、十年後に自由港の権利をもぎ取った。そこから倉庫街の建設ラッシュ」 「で、今に至る、と」 「空襲でなくなったところもあるみたいだけどね」 ふうん、と相槌を打ちながら展示を眺める。だから、中洲の中心部にもかかわらず倉庫がない部分もあったのか。この建物も、先ほど通った商館も、かれこれ二百年前に建てられたものらしい。 「あ、ここ作るのに一万八千人が追い出されたって」 「随分多いね」 「自由港にするのに、一帯の居住が禁止されたんだって。出稼ぎの日ともずいぶんたくさんいたみたい」 頷きながらぐるりと中を回れば、同居人が足を止めて興味深そうに展示を見ている。床に地下貯蔵庫への扉のようなものが付いていた。ここは四階で、倉庫として使われていた、というのであれば用途は自ずと決まって来るだろう。 「あれ、この穴何?」 「積み荷の上げ下ろしで使ってたんじゃない? これ、井戸みたいなもんでしょ」 「ああ、なるほど」 博物館自体がそこまで大きくないため、ああでもないこうでもないと言っていてもすぐに一周してしまった。とはいえ、そこそこの時間は経過していたようで、歩き通しだったこともあり、併設されているカフェのカウンター席に腰を落ち着ければ身体が沈むように感じる。 「ずいぶんお疲れだね」 「中央駅から歩いてきたんですよ」 「ああ、チリハウスを?」 「ええ」 施設柄、観光客慣れしているのだろう。店員が気さくに話しかけてきた。英語なら僕にもわかる。茶の濃いブロンドを刈り上げた筋肉質の男性が穏やかに笑う。 「普段運動しないもので。休憩させてください」 「なら、疲れの吹っ飛ぶような特別な一杯を淹れようか」 「そりゃありがたいですね。しばらく立てなくなりそうだ」 そんなことを話しながら、ぐるりとフロアを見回した。赤い展示ケースに使い込まれ、艶の出た木の床。取り付けられた金具の類は未だ現役で動きそうなほど艶やかだ。麻袋は使い古しなのだろう、書かれた文字が擦れていて、少しささくれ立っている。倉庫として利用されていた当時の情景が、人々の営みが目に浮かぶようだ。 「お待ちどうさん」 「どうも」 どうやらぼんやりと意識を飛ばしてしまっていたらしい。目の前に独特の香りと湯気が差し出され、小さく礼を言ってカップを受け取った。白いマグに小さくミュージアム名が印字されている。 「観光だろう? この後はどこに行くか決めてるのかい?」 「市庁舎に行ってみようかと」 「なら、途中にあるニコライに行くといい」 「ニコライ?」 「聖ニコライ教会さ。空襲で焼けてしまったから、教会としての機能はもうなけどね」 他に客がいないからだろう、カウンターの向こうにあるらしい椅子に腰掛け、のんびり話しかけてくる。 「先の大戦で?」 「そうさ。今でも世界で五番目に高い教会の塔だというから、目印にされてしまったのさ」 「それは残念ですね」 「うん、まあね……ああ、そうだ。最近、塔にエレベーターがついたようだから、登ってみるといい。上からここが見えるらしいよ。お金はかかるけどね」 「そうなんですか?」 「お客さんに聞いたんだ。私は登ったことがないよ」 確かに、地元の塔は自主的には登らない気がする。東京タワーもスカイツリーも、近くまで所用で行ったとして、展望台に上がらないのと同じだ。適当に切り上げて、目下の困りごとを解決するために口を開く。 「昼食はどこがいいですかね?」 「まあ、市庁舎に行くなら地下の食堂でもいいんじゃないかい? 議員も利用するから、ちょっとリッチな昼食が取れるよ。庁舎の後まで腹が持つなら、レーパーバーンまで行ってもいいかもな。観光客向けに色々あるし」 「お兄さんのお勧めは?」 「僕でいいのかい? なら、ノルトゼーかな。魚のプレートがおいしいんだ。肉が食べたいならマレドもいいよ。チェーンだから、何か所かあるしね」 「あはは」 たっぷりと休憩つつ、営業に乗せられて家で飲むためのオリジナルブレンドのコーヒーを購入してしまった。同居人はどこへ出すのか、倉庫街のポストカードを購入している。ちょうど別の客が入ったところで席を立った。笑顔で手を振るスタッフに声をかけられる。 「良い旅を!」
階段を降りて外に出る。日に目が眩む。吹き付ける風に肩を竦めて、次の目的地へのナビを促した。どうやら、この倉庫街はこれで終わりらしい。平日の昼間とはいえ、そこそこの人通りがある。 観光客なのか何かの集まりなのか。年齢が随分幅広い、一見何のつながりも無さそうな集団とすれ違った。服装にも統一感はない。ツアー客にしてはコンダクターの姿が見えないが、流れ星のようなマークのついたバッジをしているのが目に留まった。団体のマークかもしれない。 「ねえ。この先って何があるんだっけ?」 「ん、待って。ええっと、会社にホテルにレストラン……あとはコンサートホールかな。エルプフィルハーモニーだって。それが?」 「いや、さっきの人たちがどこに行くのかと思って」 「発表会でもするんじゃない? 地元の合唱クラブとか」 最近妙なことに立て続けに遭遇しているせいで、考えすぎているのかもしれない。すぐに何かの『事件』に紐づけようとしてしまうのは悪い癖だ。職業病か。 同居人が周辺マップを丁寧に畳んでポケットに押し込んだのを見つつ、大人しくナビゲートに従う。先ほどのカフェでしっかりメモしてもらっていた聖ニコライ教会とやらは十分程度で到着するようだ。 「ミニチュアミュージアムとか怖い話館みたいなとこあるけど、行く?」 「怖い話館?」 「実際にあったこの辺りの出来事の中で怖いものをピックアップして、最新技術たっぷりで体験できるんだって」 「お化け屋敷みたいな?」 「コレラとか空襲とか」 「そっちか。まあ、行きたいなら付き合うけど」 ドイツのホラーが体験できるわけではないらしい。ある意味ホラーなのか。欧州なのだから悪魔だとかそういった類の話なのかと思ったが、現実にあったことではだいぶ毛色を異にする。リアリストの気質があるのだろう。 そちらには立ち寄らず、橋を渡る。来た道とは違う通りを歩いていれば、随分と長い行列が伸びている横を通った。ミニチュアミュージアム。ジオラマのようなものがあるのだろうか。同居人は好きかもしれない。僕は興味がない。 川を渡り、次の目的地にやってきた。マスターに勧められた場所だ。聖ニコライ教会。修復されたのだろう、地面が焼けた後はほとんど分からないが、教会の本堂であったであろう場所には何もない。レンガ積みの塔に、重厚感のある像が付けられている。そしてその中心には、幾重にも並べられた鐘だけだ。 その圧倒感は、神への畏敬の念を表している、という。天井を高くするゴシック様式は、屋根がそっくりなくなってしまっていた。教会の本堂は如何ほどのものであったのだろう。 「うわ、なにこれ」 「長年雨風に晒されているから、音程がズレてるのかな」 「そういうものなのかな」 教会の鐘が鳴り響いた。時計を見ればちょうど十二時。時報を兼ねているらしい。 「なんかぞわぞわする」 「ああ、そうだね。居心地が悪いというか、情緒不安定になりそうというか」 不安定に鳴り響く音が、腹の底を落ち着かせなくさせる。音と音の間、音程、メロディー、その全てが。讃美歌のひとつなのだろうが、聞き覚えはなかった。しかし、その場から動くことができない。 時間にして三分程度だろうか。鐘の音が余韻を残しながら途切れた。観光客のざわめきが戻って来る。ふ、と広場を見渡すと、タイルの模様が妙なことに気付いた。大きなタイルを区切るように、小さなタイルで線が引かれている。入口からカーペットを引くかのように三分割。それから、梯子のように数本横に線が走っていた。その交点から外側へ三角形を描くように。塔から離れた交点には説明書きや像が据え置かれていた。 説明書きによると、ここは日本で言うところの原爆ドームのようなもので、英語表記は教会ではなくモニュメントとなっている。地下に併設された資料館は、空襲や戦争関連の資料が展示されているらしい。 エレベーターに乗り込めば、少しの浮遊感とともに、エレベーターが上昇していく。そうして、軽やかな音とともに頭の上へ到着した。外へ一歩踏み出してみれば、身を切るような冷たい風が青空に吹き付ける。それと、目の前には先ほど通った赤いレンガでできた屋根。反対側には市庁舎。所々教会だろう、塔がそびえ立っているのが見える。 確かに景色は素晴らしいが、とにかく寒い。景色もそこそこにエレベーターに駆け込む羽目になるのであった。 「思ったより遠くまで見えたし、結構よかったね」 「正直に言っていい?」 「うん」 「寒くて景色見るどころじゃなかった」 「情緒」 あまり広くなかったことも他に観光客がいたこともあり、そそくさと地上に降りてきた。観光代だと思えば許せなくもないが、同じ三ユーロを支払うのであれば温かいコーヒーが食べたいと思ってしまう。 同居人も似たようなものなのに、こちらだけ情緒云々を言われる筋合いはない、とだけ声を大にして主張したい。しないが。
川沿いを歩いて市庁舎へと向かう。市庁舎も観光スポットとなっているのがおもしろい。どころか、三十分おきに観光ツアーもしているとのことだ。文化遺産になっていたりしていたとしても、ツアーをしていることはあまりないように思う。市庁舎の前にいるウィンドブレーカーを着たスタッフに、今日の庁内ツアーの時間を聞き、階段を降りた。 昼食は地元の料理だ。なんでも、昼は一度家に帰ってからとるという習慣のあるらしいこの国では、昼食が一番豪華らしい。食事にあまり頓着しない質のようで、夕食は火を使わずにさっさと済ませ、その分空いた時間で他の家事をしたり運動をしたり家族との時間に充てたり、といった具合のようだ。 とは言え、二人ともこの国の人間ではないのだから、昼食はあまり重すぎない方がいい。名物らしいラプスカウスを頼んだ。じゃがいもとコンビーフを混ぜて煮込んだ料理らしい。上に目玉焼きが乗っている。
贅沢にワインを一杯傾け、頃合いを見て席を立つ。庁舎前はそこそこの人だかりができていた。残念ながら、どうやら今回は英語でのツアーではないらしい。 この国の言葉がわからないから逐一同居人に尋ねていれば、いつの間にか同居人がガイドに拐われ、あっという間にガイド補佐に抜擢されていた。割合飄々としていることの多い人間が愛想笑いと戸惑った顔を交互に浮かべているのが笑みを誘う。 最初は戸惑っていたようだが、ガイドや客とやりとりをしているうちに大分打ち解けたのか、解散時にはハグまでする仲になっていた。いや、どうしてそうなった。 別れを惜しみつつ、ガイドに教えてもらったおすすめの店やちゃっかり聞き出していたマルクトの情報を提げて、市庁舎を後にする。もしかしなくとも今日のハイライトはこれに違いない。 一時間ほどのツアーを終え、休憩がてら茶に誘われていた。昼食をとってから大した時間は経っていないが、まあ歩き回ったことを考えれば悪くはないだろう。そもそも、今日は近郊を回るだけのつもりだったし予定は後一箇所だ。そこも十五分程度で到着するというのだから、大したことはない。
悪戯っぽく笑う男は、フランクと言うらしい。行きつけらしいカフェは十分ほど南に行った川沿いの店だ。腰かけながら人好きのする笑みを浮かべたフランクに、同居人が何かを返す。こちらを気にする素振りはあるものの、後でまとめて話をする気なのだろう。通訳の仕事は放棄されてしまった。 「あなたは混ざらないのですか?」 「ああ、ドイツ語はわからなくて。英語ならなんとかなるんですが」 「私も英語はあまり得意ではないのですが、頑張りましょうね」 「ありがとうございます」 手持ち無沙汰にカップを傾けていれば、マスターが話しかけてきた。盛り上がっている隣で暇そうにしているのだから、気を使ってくれたのだろう。 「旅行ですか?」 「はい。この国はコーヒーが美味しい店がたくさんありますね」 「それはそれは。ありがとうございます。いつまでこちらにいるご予定で?」 「次の日曜の便で」 笑みを浮かべながら不躾にならない話題を選ぶマスターは流石の手腕だ。こちらがあまり口がうまくないことを見越してか、答えやすい話題を選んでくれる。 「なるほど。観光に行くなら気を付けてくださいね。二十五日と二十六日は祝日なので、レストランや観光施設はほとんど開いていないかもしれません」 「そうなんですか」 「ええ。そういう法律があるんです。日曜日はもとより、祝日も働くのは基本的に禁止されています。ワイナッツマルクトも、大きなところを除けば二十三日までですし」 「ワイ……クリスマスマーケットのことですか?」 「そうです。それです」 聞き返せば、頷いて返事を返された。英語とは単語が全く違っている。ついでに綴りも教えてもらったが、知らなければわからないだろう。 「北部ではここが一番大きなマルクトですが、南部の方が有名でしょう。どうしてこちらに?」 マスターはカップを手にしながら首を傾げる。老齢だろうに、壮年にも見える若々しさのある彼のその仕草が妙に似合っていた。 「同居人が、ホルステン門が見たいと」 「リューベックですか。ならこの街は拠点にちょうど良いですね。鉄道で一時間もかかりませんし」 「都心なのに古い街並みも同化していて、おもしろい街だと思います」 「古い建物はそれだけ積み重ねてきた歴史がありますからね。それを壊すのではなく、調和しようとすることは当然ですよ」 朗らかに笑いながら、マスターはカウンター内を漁る。割引チケットがあるかどうか探してくれているのだから、ありがたい限りだ。 「そういえば、この後の予定は?」 「ん、ああ、今日は聖ミヒャエル教会を見て、どこかで夕食にしようかと」 「なら、ザンクト・パウリはどうです? あそこはワイナッツマルクトもありますから」 「何かその、クリスマスマーケットは何かおすすめはありますか?」 「そうですね。いろいろありますが、私はやっぱりマグでしょうか。」 「マグ?」 「グリューワインを入れるマグカップですよ。最初にマグを買って、店でグリューワインを入れてもらう。返せばお金が戻ってきます」 デポジット制らしい。飲み歩きもできる、という訳だ。手ぶらで出かけてもワインにありつけ、使い捨てでないからポイ捨ても防げる上にゴミも減る。洗う手間を鑑みなければ良い取り組みだと思うし、なんだかんだ持ち帰る人間が多いからこそできることだ。 「毎年マグカップの柄が変わるんです。街ごとにデザインも違うので、面白いですよ」 「それは増えてしまって大変なことになりそうだ」 「色々な場所のマルクトを回るのであれば、比べるのもまた楽しみのひとつですよ」 そう言ってにっこりと笑むマスターに追加オーダーを聞かれる。笑ってコーヒーのおかわりを頼んだ。 気持ち良く見送られ、店を出る。時間があればまた来てもいいかもしれない。気の良い店主だった。 「随分話し込んでいたみたいだったけど、何話してたの?」 「クリスマスマーケットごとにマグが違うから、よく選ぶといいって」 「ああ。どんな柄なんだろうね。見せてもらった?」 「ん。流れ星の降る夜空とサンタクロースの絵だったかな」 闇に溶け込んでしまいそうなほど深い藍色に、明るく大ぶりな六芒星が尾を引いて流れていて、そこにトナカイに引かれたそりに乗るサンタクロースの戯けた顔が印象的だった。サンタクロースのイラストも相まって、随分と可愛らしい雰囲気だったように思う。 それも楽しみだ、なんて話をしながら道を進む。大きな通りそいなだけあって車通りが多いが、歩道としっかり分かれているためによほどのことがなければ事故は起きないだろう。 歩きながらそうそう、と同居人が先ほどの客との話を聴かせてくれた。 「さっき、聖ニコライ教会に行ったでしょ?」 「うん。それが?」 「WWⅡの時の空襲での焼け方が星形だったんだって」 「星?」 「そう。で、神の加護だとか奇跡の業でないか、って」 「クロスならまだわかるけど。星ねえ」 「見えた?」 「記憶にない。こじつけじゃない?」 「そんなこという人には見えなかったけどな。それで、聖ミヒャエル教会の教壇の脇にも星形の意匠が施されてるって」 「ふうん」 この短時間に、随分と星形の話を聞く。十字や花、四つ葉などと並んでよくある意匠のような気もする。シンメトリーは尊いものなのだ。
たどり着いた教会をじい、と見上げる。カフェで随分と長く話し込んでしまったせいで、すでに日が暮れかけている。時計を見れば午後四時すぎ。もう日没の時間だ。
写真は
閉館の合図とともに外へ出る。薄暗くてわかりにくくはあったが、教えてもらった衣装を探そうとしていれば随分と時間がかかってしまったようだった。 教会脇の広場には、これから何かの集まりでもあるのだろうか、数人のグループがいくつかあるのが見える。そこに暗闇に紛れるような紫色の洋服を着ているのが目についた。 夕食はクリスマスマーケットで済ませてしまうことに決めた。ホテルとは反対方向にあるザンクト・パウリへ向かう。 「わ、すごいな」 昼間からやっているが、暗くなってくるとまた一味も二味も雰囲気が変わってくる。様々な場所がクリスマスらしく飾り付けられ、マーケットが軒を連ねていた。 残り二週間となったアドベント・カレンダー。サンタクロースやトナカイのオーナメント。クリスマスツリー。ひいらぎやもみの木の枝。松ぼっくり。木のおもちゃ。ミニチュアハウス。ヴルスト。クーヘン。ジンジャークッキー。多種多様な店々は、見ていて全く飽きることがない。 入り口近くでグリューワインを売っていた。カフェで見せてもらったマグをあそこで購入するのだろう。 「わ、あったかい」 注いでもらったワインは、ぶどうの豊潤な香りがアルコールに混じってふわりと鼻をくすぐった。グッと香りが口いっぱいに広がった。呑み下した温かな熱が、胃に落ちていくのを感じる。 「うん。美味しい」 「寒いのもあるのかもね。今日一日で随分歩いたんじゃない?」 「万歩計でもしてくればよかったって?」 「最近は携帯にそう言う機能あるんだよ。見る?」 「いや、見方わかんないし」 「見て、二万歩だって」 「わあ、明日は筋肉痛だな」 「結構休憩したと思ったんだけどな」 「基本的に引きこもりだから。僕」 「それもそうだね。これからはもうちょっと定期的に外に連れ出すことにするから」 「そっち?」 「長生きしてもらわないと困るし」 「すぐそういうこと言う……」 「何?」 「ああ、うん。なんでもない」 「そう?」 道の脇でグリューワインの熱が逃げていかないようにマグを両手で包みながら、同居人と並んで電飾で輝く通りを眺める。子どもを抱き上げて歩く親。手を取り合う老夫婦。微笑み合うカップル。オーナメントを真剣に選ぶ子どもたち。 ワインを飲み干した同居人が、オーナメントの一つを手に取る。サンタクロースの乗ったソリが、トナカイに引かれているものだ。丸みのあるフォルムは鮮やかに着色されていて、可愛らしさと暖かみがある。 ぼう、と眺めていれば、店主と何か交渉していた同居人が代金を支払っていた。 「見て」 「ん?」 「おそろい」 ふわり、と笑うその笑みの向こうで、木の人形がふらふらと揺れていた。