年季の入った蓄音機から壮大な音楽が流れている。 ニコロ=パガニーニによる二十四のカプリース、その最終曲。 静寂を震わせ、夜闇を切り裂くようなバイオリンの旋律の中、少年がひとり、大きな瞳を丸くしながら、呆然と立ち尽くしていた。 少年のすぐそばには、人間が転がっている。力なく投げ出された四肢。見開かれた瞳。溢れる赤は、少年の靴下をじわじわと染め上げている。 むせ返るような鉄臭い中に、ほんの少しだけ混じる油の香り。 窓の外の激しい雨音の隙間から、ぴちゃり、と粘ついた靴音が少年に近付く。迫る影に、稲光が高く上げられた手の中のナイフを鈍く照らした。腹の奥を震わせるような雷鳴が響く。同時に、その機械の手が振り下ろされ、そしてーー。
ーー何かに締め付けられるような感覚。 ーー息苦しい。けれど、どこか暖かい。
電子音が鳴り響く。目覚まし時計のアラーム音だ。ベッドから起き上がった青年、十朱晴は、ぐしゃりと前髪を握った。髪で受けきれなかった汗が腕を伝う。背中もじっとりと湿っており、布団から離れたことで体温を下げようと本来の働きをしようとしている。 嫌な夢を見た。この夢を見るのはもう何度目のことだろうか。そんなことを思いながら、晴はアラームを止めようと手を伸ばす。 その手が時計に届く前に、横から伸びてきた別の手がその音を止めた。 「大丈夫か、すごい汗だな」 赤星透也。養父である黒田矢代と同じ警視庁捜査一課に所属する赤星は、晴がこの家に来た頃からこの家に出入りしており、黒田が忙しい時はよく面倒を見てもらっていた。 「早く起きないと遅れるぞ。黒田さんは先に行ってるってさ」 そんな赤星は、これから新任として配属される晴と同じ課に所属することになっている、と聞かされていた。晴はぼやけた頭で思い出す。そういえば今日が警視庁への初登庁日だった。 緊張からかはわからないが、今朝はどうにも寝覚めが悪く、少し頭痛もする。時刻は11時をまわろうとしていた。立派な寝坊である。 晴は眠気を振り切るように頭ぐちゃぐちゃと掻き回してからぶるぶるっと振り、目の前で呆れた声を出す赤星を見上げた。 「あ~、おはようございます。トウ兄さん」 「はい、おはよう。それにしても、今時アナログのアラーム時計なんて使ってるのお前と黒田さんくらいだよ。今はどこも家庭用ロボットが人間様の睡眠管理をしてるだろ」 それに晴は頬を膨らませて不満を表す。 「使えないものは使えないんだから仕方ないじゃないですか」 「はいはい。じゃあ、そのボサボサの頭をどうにかしといてくれてもいいですかー? 俺は先に車出しとく。朝食……もう昼食になるか。食べたら来いよ」 そう言って赤星は部屋を出て行った。残された晴は支給された制服に腕を通す。これから養父である黒田や兄代わりの赤星と肩を並べることができるような気がした。 晴が身支度を整えてリビングの方へ降りる。机の上にはラップがかけられたサンドイッチの皿にメモが添えられていた。丁寧で几帳面に少し崩されている黒田の字である。 「朝食は少しでもいいから食べること。先に行っている」 晴はメモをポケットに突っ込み、テレビの電源を入れる。それから、手を合わせていただきます。感謝、感謝と言いながら、嬉しそうにサンドイッチを頬張った。几帳面に並べられたサンドイッチは、半分に切られた食パンの間から見えるレタスの緑とトマトの赤が目にも鮮やかだ。 テレビは、ちょうど朝の番組が放映されている。どうやら昔のアニメの再放送のようだ。大きな機体のロボットが怪物と対峙している。晴はこのアニメにどこから懐かしさを覚える。昔、誰かとこのアニメを一緒に見たような気がするのである。一体誰だったか、と思考を巡らせても、記憶の糸を掴むことは出来なかった。 チャンネルをザッピングしてニュース番組に切り替える。昼時だからか、情報番組よりもワイドショーや料理番組が多い。一通り見て、遅刻しそうなことを思い出し、慌てて食器を流しへ下げる。帰宅してから洗えばいいだろう。 荷物を取りに部屋に戻ったところで、晴は床に見覚えのない謎の部品が転がっているのを見つけた。形状はネジと似ているが、どこからか取れたのだろうか。 晴は機械の類への知識がからっきしだ。このネジは一体何の部品で、これが転がっていることによるその物への不具合や影響についてさっぱりと予想することができない。周囲にあるネジを使っているであろう家具に不具合は見当たらないし、早々に取れるものではない。となれば、知らずに電子機器類を壊してしまった可能性がある。しかしながら、ネジ落ちてそうなところは見当たらない。何が起きているのかは全くわからないが、とにかくネジ取れているのは大事なのである。 「やばいやばいやばい。黒田さんに聞かなきゃいけないやばいやばい! あれー!? あれー!?」 咄嗟に件のネジをポケットに入れ、晴は大騒ぎでバタバタと家を飛び出した。
外は小雨が降っていた。今の季節、この地域は肌寒い。家の前に車をつけていた赤星が、大騒ぎで出てきた晴に呆れた顔をしたのが見えた。 「やばい! どうしようトウ兄! 何かわからないけど、ちょっとやばいかもしれない!」 助手席に飛び乗った晴がシートに腰掛けるのもそこそこに訴える。 「なんかどうしたっていうかドア閉めろ。雨入るだろ」 「どうしようこれ!」 晴はポケットに胃勢い良く手を突っ込み、掴んだ拳ごと赤星に突きつける。突然眼前に突きつけられた拳に仰け反りつつ、赤星はその拳を押し返した。 「わかったから先にちゃんと乗れ。ドアを閉めろ」 「う……はい」 晴が車のドアを閉め、いそいそとシートに身体を納めてからシートベルトをすると、ポン、と軽い音と共に女性の合成音声が流れた。 『目的地はどちらですか?』 「警視庁へ」 『かしこまりました。警視庁へ向けて発進します。到着予想時刻は、午後零時時二十分ごろです』 アナウンスが流れると、車は滑るように走り出した。ここ数十年で科学はかなり進歩し、自動車さえも自動運転は珍しいことではなくなっている。 赤星は助手席に座る晴の手を開かせて握っているものを見た。 「ああ? ネジ?」 「そう! 落ちてた! やばい! ちょっとネジかも知れない! 部品! 家壊れない? ちょっと俺わかんないって! これどこのネジ!?」 「……ああ」 少し落ち着いていた晴は、ネジの存在を思い出すと再び大騒ぎを始める。赤星は構わずじい、と数秒をネジを見つめた後、完全にパニックに陥っている晴の手の平からネジを摘み上げた。 「悪い。これ俺ん家のだ。お前を起こす時にでも落としたかな」 「ああよかった、なんか家のなんか壊れたんかと思って。俺直せないし黒田さん直せんの? 無理じゃん?」 「いや黒田さんは大丈夫だと思うけどよ」 「いやダメでしょ、あの人! あの人だって、この前トースターのチンってやつなんかガーン!って音してたよ!」 晴の目撃証言は、共に住んでいるだけあって説得力がある。赤星も思い当たる節があるのか、目を逸らして正面を向いた。車窓から見える街の景色はいつもと変わらず高層ビルが立ち並び、その下では傘をさした人々がアンドロイドを連れ歩いている。霧も少し出ているようだった。 「ねえしてたよね、見てたよねトウ兄もさ、ねえわかるよね?」 「……まあ、後で俺が直しとくよ」 「ありがてえ、トウ兄様々です」 話に区切りがついたところで、赤星が晴の様子をちらりと見やる。そうして、様子を探るように切り出した。 「それより、調子はどうだ? まあ、そうやって騒いでいるから大丈夫なんだろうが、寝てる時ずいぶんうなされていただろう? また昔のことを思い出したのか?」 「昔のこと。 昔のことですか?」 晴は両手をポケットに突っ込み、考えに耽る。その様子を見て、赤星が続けた。 「まあ、そう簡単に忘れられることでもねえよな。何かあればすぐ言えよ。相談ぐらいは乗るからさ。それに、今日はこれからお前と捜査を共にすることになるアンドロイドとの顔合わせだ。切り替えとけよ」 「オレ……オレ、アンドロイドと一緒に捜査できるのかな?」 「さあな。俺も初めて見るんだ。どんなやつなんだろうな」 そんな話をしながら外を見ていれば、やがて警視庁が見えてくる。そして、その向こうにはひときわ目立つ大きなビル、リボット社が見える。 およそ二十年ほど前、家庭用ロボットであるVOIDを発売して以来、業績を伸ばし続けている企業だ。アンドロイドが人々の生活の一部となった今、知らぬ者人はいないだろう。といってもあなたにとっては縁がない会社だったのですが。 「うう、トウ兄……」 「まあ、今やアンドロイド、VOIDは警察にまで起用されているからな。いくら係長の息子 だからといって組織に逆らうわけにはいかないだろ。どうにか折り合いつけろよ」 そんな話をしていれば、ふと、車からラジオの音声が耳に入ってきた。 「東京都のみなさんこんにちは! 十月十五日十二時ちょうどをお伝えします! 今日もはりきって生活をしましょう! では今日の運勢から!」 毎日やっている占い番組だ。何の気なしに耳を傾けていると、次々と順位が発表されていく。 「そして、本日の最下位は~? …...ざんねーん、いて座のあなた! 厄介な出来事に巻き込まれちゃうかも? 十分注意して過ごしてくださいね! ラッキーカラーは赤!」 「最下位かあ……」 「いや占いだろ」 所詮占い、とわかってはいるものの、明るいラジオの声と反した結果に、晴は着任の憂鬱な気分も相まって憂鬱な気分になる。赤星に雑な慰めをされていれば、やがて番組は切り替わりニュース番組が始まった。 最近は「アンドロイドによる殺人事件」と 「アンドロイド破壊事件」の話題でもちきりだ。それについて話をしていれば、車は目的地である警視庁に到着した。 これから自分と活動するVOIDとはどんなアンドロイドなんだろうか。少しの期待と多くの不安と共に、晴は隣にいる赤星と肩を並べて足を踏み入れた。