担当している厄介な事件のために方々を駆けずり回り、署へ戻れば、不在の間に山脈のように築かれている書類の山に受け付けられた伝言メモの海。どうにかこうにか必要最低限だけを片付けた後、残りは明日の自分へ押し付けることを決め、結城涼はすれ違う同僚に声をかけてから庁舎を後にした。  目的の店へ足を向けながら、行き交う人々に目を向ける。仕事終わりのサラリーマンに、食事へ向かう家族連れ、遊びに向かう学生たち。今すれ違っている者のうち、人間とそうでないモノは一体どれだけの割合なのだろうか、なんて詮無きことを考える。  VOIDの販売が開始されてから10年。人間と見分けのつかないような外見であることも相まって、人口の減少を補うかのように、その利便性からあっという間にアンドロイドたちは街に溶け込んでいる。  人間でなくても済む仕事が段々とアンドロイドに取って代わられる。それを忌避する動きが世間にあることはもちろん知っているが、今はまだ過渡期なのだろう。あと10年もすれば、世の中の風潮も変わっていくに違いない。  世間では殺人事件やら交通事故やらの悲惨なニュースと、スポーツの勝敗やら動物の誕生やらのニュースが同列に扱われていることは生まれる前から変わっていないけれども、親の世代には授業で端末を使うことはなかったようだし、本も新聞も電子版より紙が主流で、何よりアンドロイドが街にいなかった。そうやって、街の様子は驚くほどに早く移り変わっていく。  それでも、道行く人々がなんてことのない、何も知らない顔をして自分の目的のために行き交っているのは少し愉快ですらあった。

繫華街から少しばかり外れた路地へと足を踏み入れれば、目的地であるあるバーはすぐそこだ。扉には「アンドロイド入店禁止」のシール。ペット入店禁止とはまた少しばかり違うだろうが、このような店は珍しくはない。  扉を開ければ、カラン、と軽やかなベルが鳴る。広くはない店内にはカウンター席と数少ないテーブル席が数席据え付けられていた。普段はひとりか、同僚とのふたりであるためにカウンター席に並んで座るが、今日は同僚の妹もいるため、テーブル席を陣取る。 「今日はそっちなのか? 珍しい」 「3人だから」 「へえ? 誰を紹介してくれンだ」 「女子高生」 「……未成年たぶらかすのはどうなんだ?」 「それどういう認識? 残念ながらアイツの妹。めちゃくちゃ可愛いよ」 「そりゃ楽しみだな」  わざわざカウンターから出て声をかけてきたマスターと言葉を交わす。交番から本庁へ異動となってからおよそ2年。ふらりと入ったこの店に入り浸っているうちに、マスターとはすっかり顔馴染みとなってしまった。  マスターには来てから頼むと伝え、渡されたグラスを煽る。冷えた水が喉から腹へと落ちる感覚が、ここ数日胸の奥に詰まったような気持ち悪さも押し流されるような気がした。  そうして、しばらくぼんやりとしていれば、入口から誰かが扉を開けたベルが聞こえる。入ってきた白髪のその男に向けて手を上げれば、すぐに向かいの席に座ってきた。話題の女子高生の兄。同僚の白瀬恭雅だ。 「悪い、遅くなった。仕事がなかなか片付かなくてな」 「お疲れ。何飲む?」 「何だ。先に飲んでりゃ良かったのに」 「心ちゃんを待ってたの」 「あっそ」  白瀬は興味を失ったかのようにカウンターに目を向け、さっさと注文の声をかければ、慣れたようにマスターからの返事が返ってきた。 「それで、心ちゃんは?」 「もうすぐ来るってよ。ったく、アイツが言ったんじゃねえか」 「ここ、ちょっと奥にあるし、迎えに行かなくていいの?」 「携帯があるだろ。アイツもそこまで方向音痴じゃねえよ」  肩をすくめ、白瀬は端末に視線を落とす。あまりよくは見えないが、ぽこぽこと通知が来ているようだから、なんだかんだ言いつつもマメに相手をしてやっているのだろう。 「しっかし、女ってのはなんでこんな準備に時間がかかるんだろうなあ」 「それは女に失礼じゃない?」 「そうかあ? 女の心理はよくわからん」 「好きな人にはよく見られたいでしょ。あんたにはないわけ?」 「はあ? 誰のこと言ってンだよ」 「まったく、これだから顔がイイ男は……」 「オイ」  毒にも薬にもならない話をしていれば、呆れたような顔をしてマスターがグラスをふたつ持ってきた。この程度はいつものことではあるが、ほどほどにしろよ、の言葉を頂戴してしまったので、ありがたく乾杯をすることにする。 「あー……そうだ、今日は付き合ってもらって悪いな。アイツが会わせろってうるさいんだ。まあ、お前と久々に酒をゆっくり飲みたいと思っていたし、ちょうどよかったよ」 「別に今更気にするもんでもないでしょ。あたしも心ちゃんとは会いたかったしね」  直後、扉から軽やかなベルが聞こえてきた。さらりと揺れる長い白髪をポニーテールにした少女がきょろきょろと店を見回す。手を振ってやれば、パッと顔を明るくして同じ髪色の兄の隣の椅子を引いた。 「涼さんこんばんは! 今日は急にすみません!」 「やたら遅いと思ったら何やってんだ。だから迎えに行くっつったのに」 「仕方ないでしょー? それに元はと言えばお兄ちゃんがこんな店にするんだから!」 「こんな店とはなんだ。大体オレはいつも通りこいつとふたりで飲むところをオマエが無理矢理ついてくるって言ったンだろうが」  席について早々に話し出すふたりに、結城は小さく笑みをこぼした。白瀬と知り合って数年。こんな光景も珍しくはない。妹に迎えに行くと言ったあたり、白瀬もひとまわり近く年が離れている妹を気にかけている様子が窺い知れるというものだ。当の白瀬はといえば、突っかかってくる心に呆れたように言葉を返している。 「心ちゃんもお疲れさま。何飲む?」 「えっと……あ、オレンジジュースにします!」 「ん。マスター」  店内のBGMが流れるこの小さな店に、そのの声はひどく通った。視線をカウンターに向ければ、心得たように頷かれる。差し出したメニューを楽しそうにめくる心に、白瀬はしけた顔でウイスキーを流し込んでいる。 「はいよ。お嬢ちゃん、何か食べたいモンはあるか?」 「わ、ありがとうございます! えっと……これと、これとー……あ、これもおいしそう!」 「そんなに食べられる? 大丈夫?」 「え? 食べられますよ〜、お兄ちゃんが!」 「あ、そうだね」  メニューを示しながら、次々と注文をしていく心に結城が声をかけるも、返ってくるのは元気な返事。注文の量は全くと言っていいほど可愛くはないが、兄への甘えが見えるそれは微笑ましい。 「オイ。そんなに頼んで誰が払うと思ってンだ。大体オレはそんなに食えねえぞ」 「え? お兄ちゃんに決まってるでしょ。ねー涼さん」 「そうそう、食べてあげなよ。お兄ちゃん?」 「はあ……俺はダイソンじゃねえんだぞ」 「ヨッ! 人間掃除機」 「ヨッ! さすがお兄ちゃん!」  心なしかげっそりとした白瀬のツッコミを当然であるかのように軽やかに流す言葉尻を拾って乗ってやれば、白瀬は反論すらも面倒になったのか、大きく息を吐いて再びグラスを口に運んだ。注文のメモを取るマスターがその肩を慰めるかのように軽く叩けば、やさぐれたかのような目でじっとりと睨め付ける様がどうにも可笑しくて、結城は噴き出しそうになるのをビールグラスで必死に隠す。 「あ、涼さんは何が食べたいですか?」 「んー、あたしはそうだなあ……タコが食べたいかな。白瀬は?」 「あー……おかわりで」 「はいよ」  マスターがカウンターに引っ込んで行ってから幾分も経たないうちに、白瀬のウイスキーのおかわりとサラダが運ばれてきた。心が嬉々としてオレンジジュースの入ったグラスを持ち上げる。 「それでは! 今日は来てくれてありがとう、涼さん! かんぱーい!」 「乾杯。あたしも心ちゃんに会えて嬉しいよ。白瀬もお疲れ」 「乾杯。結城もお疲れさん」 「ねえお兄ちゃん、アタシは?」 「いやオマエ、オレに何もなかっただろ」 「ええ〜、そこは何か言ってくれるとこじゃないの?」 「毎日顔つき合わせてンのに、今更何を言うんだ?」 「何それ! 涼さんだってそうじゃないの?」  グラス片手言い合う兄妹を眺めながら、結城はサラダを取り分けてやる。小皿を渡してやれば、じゃれ合いをやめて礼を言ってくる仕草がそっくりなのだから、やはり血は争えないのだろう、と結城はいつも思う。  マスターがひとりで店を回していることもあってか、料理が出てくるのには時間がかかる。以前、この規模の店なら従業員を雇ったらどうか、という話をしたこともあったが、手伝ってくれるのか、と勧誘を受けたきり、その話はなかったこととなっている。そのうち弟子入り志願する人もいるのでは、と結城は思っているが、マスターが拒否をしているのか志願者が現れないのか。カウンターの中に立つ従業員は増えていない。  割合すぐに運ばれてきたタコのカルパッチョにチーズの盛り合わせ、ピクルスをそれぞれつまみながら近況報告に花が咲く。ふと、壁に立てかけるように置かれているギターケースに目が留まった。結城は以前連れ立って遊びに行った先のショッピングモールにあるストリートピアノで、心が数曲披露してくれたのを思い出した。彼女がまだ中学生だった時分だ。 「心ちゃんギターやるようになったの?」 「あ、これですか? そうなんです。実はわたし最近軽音部に入って。元々歌うのが好きで、将来はそのー、歌手になれたらなあって思って」 「へえ、すごいじゃん」 「えへへ」  音楽が好きなことは知っていたが、歌手を目指しているとは知らなかった。彼女が夢を追う様が楽しみだ、と思わず頬が緩む。ギターボーカルであれば、学園祭か何かで披露する機会もあるだろうか。 「あ! 相談なんですけど、今度発表会があるんです。涼さんもよかったら来てくれませんか? チケットならプレゼントするので」 「もちろん。お金もちゃんと払わせて」 「本当に? 来てくれるんですか?」 「そりゃ心ちゃんの晴れ舞台なんだから」 「やったあ! ありがとうございます! これチケットです!」  考えていたことが読まれたかのように晴れ舞台にお呼ばれしてしまった。そろそろ半袖に切り替える人間が増えてきた季節。進学してこんなに早く発表会に出られるメンバーを集めたのか、空いた枠に入ったのか。彼女の人たらしの才能と発表に出られると決断できるほどの努力と仲間への信頼、勇気を見せつけられ、結城はその頭を撫でくりまわしたくなった。料理の乗ったテーブルがあるために出来はしないが、隣に座っていたら実行していたに違いない。 「わあ、涼さんが来てくれるんだったら、もっと頑張れそうな気がします! やったやったー!」  結城が行くことに無邪気に喜んでいる心に青春だなあ、なんて結城が静かに感動していると、マスターが出来上がった料理を次々と運んできた。  まずテーブルの中央に置かれたのは、合板の木目が美しいプレートに広げられた3種の肉。それを色取るように周囲に散りばめられた目にも鮮やかな野菜たち。中央の網目の焼き加減が素晴らしいミディアムレアに焼き上げられた牛肉の下には水菜が敷かれていて、両隣の鶏肉と豚肉をそれぞれ焼き目のついたパプリカにズッキーニ、ラディッシュが彩っている。  その隣には、スキレットに花のようにナスとトマトとモッツァレラチーズが並べられ、オーブンでこんがりと焼き上げられた一品だ。トマトのあかとチーズの白、ナスの紫が目にも鮮やかで食欲をそそる。同時に並べられたのは、まだ熱されてパチパチと音を立て、オリーブオイルの中でエビが踊っているように見えるアヒージョだ。付け合わせのバゲットが美味しいことは随分前から知っている。どこの店のものかは、残念ながら未だに教えてもらっていない。  歓声を上げる心に、料理を並べたマスターが嬉しそうな顔をする。この子はとっても美味しそうに食べるよ、なんてすぐにわかることなぞ言わずに、料理に合うワインを出してもらうように頼んだ。 「涼さん涼さん、これ、すっごくおいしそうですね!」 「すっごく美味しいから、熱いうちに食べてマスターに感想言ってあげな」 「わあい! いただきまーす!」  嬉しそうに牛肉に手をつける様子に、若いなあなんて思いながらナスをバゲットに乗せてつまむ。トマトの酸味がわずかに移っていて、シンプルながらもこの味は自分では出せそうもない。 「おいっしい! えっ! これすっごくおいしいです!」 「おっ、お嬢ちゃんわかってるなあ。グレープフルーツは大丈夫か?」 「はい! わあ……お肉がすっごく柔らかいのに、噛めば噛むほど肉汁があふれてくる……すごい、おいしい……」 「ありがとさん。これはオジサンからな」 「いいんですか!? ありがとうございます!」  嬉しそうにグレープフルーツジュースを差し出す脂下がった顔に呆れながら、ついでのように置かれたワイングラスを薄暗い照明にかざす。赤みがかったそれに首を傾げる。白瀬も似た様子で、差し出されたジョッキに片眉を上げれば、キールとインペリアル・フィズと短く答えが落とされた。  いい加減ちったあ覚えろ、というお小言は軽く流してグラスを傾ければ、カシスの独特な甘みが、すっきりとした白ワインの酸味でまとめられている。これはどの料理にも合いそうだ、と鶏肉に手を伸ばした。 「いいなあ。アタシもお酒飲んでみたい」 「あと4年待なんてすぐだろ」 「ええ〜お兄ちゃんばっかりずるい! アタシも涼さんと同じお酒飲んでみたい!」 「じゃあ、心ちゃんが二十歳になったら、いいお酒をプレゼントするから、一緒に飲もうね」 「それは絶対約束してほしいですけど! ちょっとだけ飲んじゃダメですか?」 「オマエ、オレたちの前でいい度胸だな……」 「ちぇ。ちょっと言ってみただけじゃん」  文句を言いながらも、食事の手が止まることはない。少しばかり冷めたエビのアヒージョを食べながら、心は不満そうに唇を尖らせた。  そこに割って入るように運ばれてきたのは、魚介の香りが鼻腔をくすぐるアサリの白ワイン蒸しだ。スープにはアサリの風味がしっかりと移っているに違いないし、オリーブオイルとガーリック、それからパセリが素晴らしい調和を生み出していることが見ただけでわかる。すでに空になっているサラダやチーズの盛り合わせ、カルパッチョの皿を下げる代わりに置かれたのは濃厚なチーズが米の一粒一粒を丁寧にコーティングしたリゾットだ。数種類入っているらしいキノコの香りが、アサリに負けずふわりと香る。  そこそこの量が運ばれてきてはいるものの、どれも食が進む味付けでどれだけでも食べられそうだ。しかしながら、油で少なからず胃の許容量近くまで来ていた結城にとって、ここに来てチーズたっぷりのリゾットは厳しいものがある。 「お兄ちゃん頑張るね」 「お前も食えよ」 「食べてるってば。こんなにおいしいのに食べない方がもったいないもん」  残されていたピクルスをつまみながら、食べ盛りのふたりを眺めつつ、グラスを傾ける。これくらい飲みやすければ、彼女の飲酒デビューにちょうどいいかもしれない。覚えられる気がしないが、今度来た時にはこの酒の名前とレシピをマスターに教えてもらおうか。あと4年もあるが、白瀬とマスターとどんな酒が相応しいかを今から話しているのもきっと悪くない。  食事を終え、デザートを堪能しつつ話に花を咲かせていれば、時刻はあっという間には22時に差し掛かろうとしていた。明日も仕事があるし、心は学校がある。そろそろ出るか、と白瀬が立ち上がってカウンターに向かうのに続いて、心も立ち上がってギターケースを肩にかけた。それを見て、結城は彼女を促して店の外へ出る。  カラン、というベルの音を背にすれば、夜のひんやりとした空気が頬を撫でる。繁華街のネオンに負けないほど青白く輝く満月が、路地を照らしていた。  白瀬と飲みに行くときは、最初は毎回割り勘をしていたが、いつしかどんぶり勘定になり、やがて面倒だから、と交互に会計をするようになっていた。今回は心がいることもあり、白瀬が会計を持つ番だ。楽しい時間にくちくなった腹。心ちゃんは少しばかり眠そうだ。  程なくして外に出た白瀬と3人で並んで歩く。大通りまであとわずか、というところで、楽しそうに学校での様子を話していた心が声を上げた。 「あー、お店に忘れ物してきちゃった。ごめん、ちょっと取りに行ってくる!」 「ここで待ってるぞ」  随分と慌てた様子で店に駆けて行く背に、白瀬は声を張りあげた。振り向いて手を振る心を見つめる様は少しばかり心配そうだ。 「ギターは置いていけばいいのにね」 「全くだ。騒がしいヤツ」 「心配なら追いかければ? お兄ちゃん」 「うるさい。大した距離じゃねえだろ」  白瀬は決まりが悪そうに頭をかいて、側の壁に寄りかかる。顔は依然として路地の奥へ向けたまま、こちらを見ようとはしない。 「今日は助かった。アイツもオマエに会えて嬉しそうだったし、オレも気が和らいだ。最近はやることが多くて、少し滅入っていたからな……」  薄汚れた路地の壁に散る白髪が、街灯に照らされて輝く。ポケットに手を突っ込んだまま、暗がりに落とす影の濃い路地へと言葉をぽつりぽつりと落とす様を眺めながら、結城は黙して虫の集る街灯を見上げた。 「元々は一課の担当だったのが俺たちまで駆り出されたぐらいだ。ただの殺人事件じゃない。上に問うても答えはないし、自分たちで調べろってことだろ。はあ……」 「こんなところでする話じゃないでしょ」 「そうだな……まあ、いいか。仕事の話はもうよそう。油断するとすぐに仕事のことを考えちまう」  そこまで言ったところで、白瀬はこちらを向いた。結城は肩をすくめて答えてやる。 「あんな厄介ごとじゃあね。あたしも似たようなもんだし」 「職業病ってか?」 「ワーカーホリックの方が近いんじゃない?」 「笑えねえな」  白瀬がふ、と息を吐くように笑みをこぼす。無意識にか強張っていた肩から力が抜けたように脱力して壁に背を預け直した。 「まあ、その厄介ごとのおかげでここのところゆっくりする暇もなかったし、今日はいい息抜きになったでしょ」 「ああ」 「ここのところ遅かったし、心ちゃんともあんまり話せてないんじゃない?」 「今日はお前の前だからああだったけど、家ではあいつ、うるさいぞ?」 「そう?」 「ああ。今日のテストは何点だった、とかな」 「ふふ。顔を合わせる時間があるならよかった」  残業続きで朝も早い兄と高校生となって世界が広がった妹では、ロクな会話がなくなってしまっても不思議ではない。誰も言わないだけでブラコン、シスコンの似た者兄妹であることは、周囲の共通認識だった。  話がひと段落したところで、白瀬が手を突っ込んでいたポケットから何かを取り出し、こちらに向かって投げてくる。勢いよく放られたそれは、小さな紙袋だ。中を見れば、小さな鈴のようなものが入っていた。手にとってみれば澄んだ音が鳴り響く。シルバーで細かい彫刻が施された、シンプルながらも上品なデザインのものだ。ベル部分が大きいので、チェーンも太めのものだ。 「何これ」 「ティアベルってやつらしい。まあ、偶然見つけてな。たまにはこういうのも悪くないと思ったんだ」 「気持ち悪っ。どういう風の吹き回し?」 「いらないなら返せよ」 「嫌だね」  ここ数年、白瀬がプレゼントをしているところなぞ見たこともない。どれだけ女性に粉をかけられても彼女を作る素振りもなかったのだから、これがよっぽど琴線に触れたのだろう。 「にしても、どうしたの? 心ちゃんにあげれば喜ぶのに」 「アイツはいいだろ。まあ、オマエには少なからず世話になってるからな……あ、言っとくが深い意味はないぞ」 「わかってるってば……んー、なんかあったかな……あ、これあげる」  手にとったティアベルを紙袋に戻し、ポケットにしまう。ついでに何かないか、とごそごそ探せば、指先に当たるものがあった。今朝タバコと一緒にコンビニで購入した100円ライターだ。随分と高価に見えるこのアクセサリーとは全く釣り合いが取れてはいないが、仮に渡すなら何もないよりはいいだろう。 「これにはちょっと釣り合わないけどね」 「くれるならもらうけど」 「まあ仮ってことにしといてよ。もうちょっといいの買っておくから」 「期待しないで待っとく」  受け取った青いライターをひらり、と振ってポケットに突っ込んだ白瀬は、そこで壁から離れ、路地の奥へと目をやった。見れば、忘れ物らしいノートを片手にした心が戻って来たのが見える。 「すみません!」 「遅えよ」 「忘れ物、見つかってよかった」 「明日の授業で提出するヤツだったので、めっちゃ焦りましたよ〜」  他愛のない会話をしながら、ふたたび3人並んで歩き出す。ギターケースを肩にかけた心のステージを心置きなく見に行くために、今抱えている事件が解決すると良い。  家に帰って改めて調べた結城は、このティアベルが軽々しく人にくれてやるような値段のものではないことに気付き、天を仰いだ。白瀬が全くもってそういった意図を持っていないことは重々承知ではあるが、こんなものを身につけていれば、顔と外面の大層良い女性ウケする白瀬のファンから刺されるかもしれない。結城は大きなため息をひとつ吐いて、お返しにするものの検索を始めた。

ティアベルがスズランのモチーフだということを加味し、スズランの意匠が施されたシルバーのライターを購入することを決めたものの、なかなかこれといったデザインが見つからない。捜査の合間に様々な店に立ち寄り、ようやく納得のいくものが購入できたのは、あれから一週間が経ってしまっていた。  ——心が行方不明となった。  その一報をもたらしたのは、次の飲み会の算段を持ちかけようとした結城に、血相を変えて行方を尋ねる白瀬だった。

それから目まぐるしく日々が過ぎ、白瀬は警察官を辞めた。あの日投げて寄越されたティアベルは、ポケットから結城の首へと移され、服の下から時折か細い音を奏で、反対に渡しそびれたライターは、小さな箱に入ったまま使われることもなく、今も結城のポケットに突っ込まれている。