目的地にたどり着いたころには、辺りはすっかりと暗くなってしまっていた。刺すような冷気から身を隠すように、首元を覆うマフラーを引き上げた。傍らの荷物のせいで、着こんできたダウンジャケットのポケットに手を突っ込むこともできない。 面倒がって遠出をしたがらない僕を塒から引っ張り出した同居人兼恋人は、人の流れに逆らいながら、地図を片手にスーツケースを転がしている。その足取りは長旅をしてきたとは思えないほど軽やかで、常の運動不足を自覚している身としてはついていくのに精一杯だ。 ひょんなことから転がり込んできた、この八つ年下の瘦躯の麗人と過ごすようになって随分と経つ。実家に寄り付かず、大学の研究室の他は塒を転々としている、と聞き、次の住処が見つかるまで、と屋根を貸したまま居つくようになった。 その前もそれからも筆舌に尽くし難いほど様々なことがあったが、なんだかんだうまくやっている、と思う。それこそ、住人が増えて手狭になった居を移し、布団を共にし、こんなところに揃って連れ出されることを是とする程度には。 自宅の最寄り駅から空港まで一時間と少し。飛行機に乗って十二時間。そこから乗り換えて更に一時間。入国審査を受けて地下鉄で三十分。そうして降り立った駅からの道すがら、すれ違う人々の様子、話し声、建物の造り、店構え、街路樹までもが、ここが遠く離れた異国の地であることを主張している。飛行機のアナウンスと共に八回巻き戻した時計は夕食時を示していた。 ーー西欧の中進国のひとつ、ドイツ。その北部にある第二の都市、ハンブルク。クリスマス間際のこの時期に、建造物目当てでやってきた。第二の目的は、クリスマスマーケットだ。 街灯の絶えない大通り沿いに十分ほど歩いたところで、同居人が足を止める。同じような高さの真白い建物が軒を連ねる一角。スーパーマーケットとケバブ屋の間にに白い枠にはめ込まれたガラス扉が現れた。どうやらしばらく滞在する拠点はここらしい。 そのままガラス扉を押し開ければ、柔らかな照明に迎えられる。身を切るような冷たい風が遮られたことにほう、と息をついた。大理石のタイルの壁に、深紅のカーペットの敷かれた狭い階段を上る。 「いらっしゃいませ」 大きな襟のついたゆったりとしたシャツの上に柔らかなベージュのベストを重ねたブルネットの女性がフロントで何やら作業をしていた。こちらに気付いて人好きのする笑みを浮かべる。名前を尋ねられ、傍らの同居人が答えた。流暢に紡がれる言葉はどうにも耳慣れない。 会話を聞き流していると、隣で同居人が財布を取り出していた。宿泊代金は先に清算をしてしまうらしい。契約者以外のクレジットカードを使用すると面倒なことになるのはわかり切っているため、ここの支払いは任せてしまう。代わりに、滞在中の費用は自分が全て出す心算だ。 フロントスタッフからルームキーが手渡される。三五。フロントのそばにある小さなエレベーターで目的階に上がり、客室を探す。表からは見えなかったが、中庭を囲むようにロの字の外側に向けて部屋が配されているようだ。 真っ白い壁の間に伸びる深紅のチェックにドットが組み合わさった独特のカーペットを進んだその角。木目の美しい一枚板に小さく部屋番号のプレートが埋め込まれていた。部屋の中は廊下と同じカーペットにベッドが二台。クローゼットにバスルーム。丸テーブルに椅子が二脚。思っていたよりもずいぶんとゆったりとした造りだ。 「はあ……疲れた」 「お疲れさま。夕飯はどうする? 外、色々ありそうだけど」 「ああ、うん。スーパーもあったしね」
結局、外をうろつく気にもならず、拠点の真下に店を構えるケバブ屋に入ることにした。外部とを隔てるガラス扉の先は、わかっていても首をすくめてしまう。長時間の移動で疲れていたこともあり、車の通りも人の通りも多い街中を歩く気にもなれず、逃げるように店の扉を開けたのだった。 テイクアウトもしているらしい、外からでも様子の見える入口の真横にある厨房脇を通り、明るいレモンイエローの壁紙に落ち着いたレンガ色の座席が並ぶ一角に腰かける。 「はあ。なんでこんなに寒いわけ?」 「いや、ここ来たいって言ったのアンタでしょ」 「そうだけど」 割合涼しい顔をして器用に何でもこなす同居人も、流石にこの寒さは耐えかねたらしい。思わず、といった風に出た悪態にぞんざいにつきつつ、白いシャツに黒いサロンエプロンを身に纏った店員にが持ってきたメニューに目を落とす。読めない。 「コーヒーでいい?」 「うん」 やはりどうにも耳慣れない。同居人が注文しているのを聞きながら、メニューをめくる。どの料理にも横に写真があるのが救いだ。指を差せばどうにかなるだろう。小耳にはさんだコーヒー、という単語は発音が英語と変わらなかった。 「せめて英語のにしてもらわない?」 「僕が読めるからいらないでしょ」 「はいはい、お願いします」 「……まあ、これメニューの名前はたぶんトルコ語だけど」 苦々し気に口にされた言葉に喉奥から妙な音が漏れた。耐えきれずに肩を震わせていれば、それで、と不機嫌そうな声が投げつけられる。それに手を振って答えた。悪いようにしない、ということはわかり切っている。 店員が去った後も中々漏れる笑いが収まらない。普段使わない腹筋の動きがいよいよ痙攣じみてきたころ、店員がコーヒーを置いて行った。勢いよく呷って、思ったよりも熱いそれに舌を火傷しそうになる。 呆れた顔をしつつもしっかりと注文をし終えた同居人がこちらに向き直った。そのころになってやっと顔を上げられるようになる。 「満足した?」 「疲れた」 正直な感想が口をついて出る。笑うということは存外に体力を使うものなのだ。胡乱気にこちらを見やる視線からふい、と逃げるように顔を反らして店内をぐるりと眺める。 入口付近の厨房は活気のある声にあふれていた。客の出入りのたびに開く扉から、冷えた空気がなだれ込んでくるのを、その熱気で抑え込んでいるような気さえする。観光客が多いエリアなのだろう、様々な言語が客席のそこここから漏れ聞こえてきた。 とりとめのない話をしていれば、香ばしい香りを引き連れてメインが登場する。楕円形の生地の上に乗せられたトマトとアスパラ、たっぷりのチーズの香りが食欲をそそる。 「ねえ。これ、大きくない?」 「こんなもんでしょ」 これが載っていたページは何だったか。ピザのようなものだろう。向かいでは素知らぬ顔でケバブを頬張っている。レタスのシャキシャキとした音が聞こえてきた。何かを揚げたような香りも食欲をそそる。こちらはチーズたっぷりの胃に直撃しそうなメニュー。先ほど笑ったのを相当根に持っているらしい。
どうにかこうにか食べきった。思っていたよりもチーズが濃厚ではあったものの、案外ぺろりと平らげられてしまった。が、やはりチーズで胃が重い。聞いてみれば、この読み方はピデ。トルコ版ピザと言うべきか、まあ似たようなものらしい。 店員を呼んで、食事の終了を伝える。十七ユーロ。高いのかどうかわからない。駅も近いし、地元の人間らしき人もいるのだから、こんなものだろうか。店員が何かを続けて話しかけてきている。 「なんて?」 「おいしかったかって」 「ああ」 英語でおいしかった旨を伝え、財布から二十ユーロ紙幣を取り出す。チップの相場はわからないが、一割もあればいいだろう。釣りは不要の旨を伝え、席を立つ。 甘いものが食べたい、という同居人のリクエストで、向かいのスーパーに入ることにした。あまり遅くまで店が開いているというイメージはなかったが、そうでもないらしい。 「スーパーって結構地元感出るよね」 「まあ、一番生活に密着してるし。さすがに色々あるな」 「ねえ。見て芳矢さん。チョコめっちゃある」 「ああ、うん。好きに買ったら」 スーパーの造り自体は日本とそこまで変わらないようだ。青果に肉や魚の生鮮食品、乳製品などの冷蔵食品、冷凍のコーナー、菓子類、調味料、日用品と、その品揃えは多岐にわたる。 酒のコーナーはビールにワイン、ブランデーと、安い物からそこそこの値段のものまで、かなりの種類の酒が並んでいた。土産に買うのはいいかもしれないが、ユースホテルではなし、滞在中はどうせ外食になるのだから、グラスで色々な種類を飲み比べてみるのがいいだろう。 声をかけてレジへ向かい、購入したチョコレートとミネラルウォーター、ハーフボトルのワインを買って店を出たところで、同居人がよろけたのを咄嗟に支えた。往来の多いこの通りを走ってきた人物に体当たりのごとくぶつかられたようだ。 「怪我は?」 「平気」 黒いフードを被ったその人物はそのまま駅の方へと走り去ってしまう。確認すれば身に着けていた財布も無事で、スリでもないようだ。とにかく、何もないに越したことはない。それよりも、寒さで耳が凍りそうだ。
結局、外をうろつく気にもならず、拠点の真下に店を構えるケバブ屋に入ることにした。外部とを隔てるガラス扉の先は、わかっていても首をすくめてしまう。ただ座っているだけとはいえ、丸一日近くかかった長時間の移動で疲れていたこともあり、車の通りも人の通りも多い街中を歩く気にもなれず、逃げるように店の扉を開けたのだった。 テイクアウトもしているらしい、外からでも様子の見える入口の真横にある厨房脇を通り、明るいレモンイエローの壁紙に落ち着いたレンガ色の座席が並ぶ一角に腰かける。 「はあ。なんでこんなに寒いわけ?」 「いや、ここ来たいって言ったのアンタでしょ」 「そうだけど」 涼しい顔をして器用に何でもこなす同居人も、流石にこの寒さは耐えかねたらしい。思わず、といった風に出た悪態をぞんざいにあしらいつつ、白いシャツに黒いサロンエプロンを身に纏った店員にが持ってきたメニューに目を落とす。読めない。 「コーヒーでいい?」 「うん」 やはりどうにも耳慣れない。同居人が注文しているのを聞きながら、メニューをめくる。どの料理にも横に写真があるのが救いだ。指を差せばどうにかなるだろう。小耳にはさんだコーヒー、という単語は発音が英語と変わらなかった。 「せめて英語のやつにしてもらわない?」 「僕が読めるからいらないでしょ」 「はいはい、お願いします」 「……まあこれ、メニューの名前はたぶんトルコ語だけど」 苦々し気に口にされた言葉に喉奥から妙な音が漏れた。耐えきれずに肩を震わせていれば、それで、と不機嫌そうな声が投げつけられる。それに手を振って答えた。悪いようにしない、ということはわかり切っている。 店員が去った後も中々漏れる笑いが収まらない。普段使わない腹筋の動きがいよいよ痙攣じみてきたころ、店員がコーヒーを置いて行った。勢いよく呷って、思ったよりも熱いそれに舌を火傷しそうになる。 呆れた顔をしつつもしっかりと注文をし終えた同居人がこちらに向き直った。そのころになってやっと顔を上げられるようになる。 「満足した?」 「疲れた」 正直な感想が口をついて出る。笑うということは存外に体力を使うものなのだ。胡乱気にこちらを見やる視線からふい、と逃げるように顔を反らして店内をぐるりと眺める。 入口付近の厨房は活気のある声にあふれていた。客の出入りのたびに開く扉から、冷えた空気がなだれ込んでくるのを、その熱気で抑え込んでいるような気さえする。観光客が多いエリアなのだろう、様々な言語が客席のそこここから漏れ聞こえてきた。 とりとめのない話をしていれば、香ばしい香りを引き連れてメインが登場する。楕円形の生地の上に乗せられたトマトとアスパラ、たっぷりのチーズの香りが食欲をそそる。 「ねえ。これ、大きくない?」 「こんなもんでしょ」 これは何と言う料理だったか。見た目は細長いピザだ。向かいでは素知らぬ顔でケバブを頬張っている。レタスのシャキシャキとした音が聞こえてきた。何かを揚げたような香りも食欲をそそる。こちらはチーズたっぷりの胃に直撃しそうなメニュー。先ほど笑ったのを相当根に持っているらしい。 思っていたよりもチーズが濃厚ではあったものの、案外ぺろりと平らげられてしまった。が、やはりチーズで胃が重い。聞いてみれば、ピデというトルコ版ピザらしい。頼んだコーヒーでチーズを押しやりながら、同居人をちらり、と見やる。ケバブを食べ、機嫌の悪いポーズはもうやめたらしい。 店員を呼んで、食事の終了を伝える。十七ユーロ。高いのかどうかわからない。駅も近いし、地元の人間らしき人もいるのだから、こんなものだろうか。店員が何かを続けて話しかけてきている。 「なんて?」 「おいしかったかって」 「ああ」 英語でおいしかった旨を伝え、財布から二十ユーロ紙幣を取り出す。チップの相場はわからないが、一割もあればいいだろう。釣りは不要の旨を伝え、席を立つ。 甘いものが食べたい、という同居人のリクエストで、向かいのスーパーに入ることにした。あまり遅くまで店が開いているというイメージはなかったが、そうでもないらしい。 「スーパーって結構地元感出るよね」 「まあ、一番生活に密着してるし。さすがに色々あるな」 「ねえ。見て芳矢さん。チョコめっちゃある」 「ああ、うん。好きに買ったら」 スーパーの造り自体は日本とそこまで変わらないようだ。青果に肉や魚の生鮮食品、乳製品などの冷蔵食品、冷凍のコーナー、菓子類、調味料、日用品と、その品揃えは多岐にわたる。 酒のコーナーはビールにワイン、ブランデーと、安い物からそこそこの値段のものまで、かなりの種類の酒が並んでいた。土産に買うのはいいかもしれないが、ユースホテルではなし、滞在中はどうせ外食になるのだから、グラスで色々な種類を飲み比べてみるのがいいだろう。 声をかけてレジへ向かい、購入したチョコレートとミネラルウォーター、ハーフボトルのワインを買って店を出たところで、同居人がよろけたのを咄嗟に支えた。 「怪我は?」 「平気」 見れば、黒いフードを被った人物が走り去って行ったのが見える。往来の多いこの通りで、誰かにぶつかっては悪態をつかれているのが見えた。身に着けている物を確認すれば、なくなっているものはない。スリではないようだ。とにかく、何もなければ良い。それよりも、寒さで耳が凍りそうだ。